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みなさん元気ですか

 投稿者:羽嶋大介  投稿日:2016年12月11日(日)22時06分5秒
返信・引用
  久々に来てみたら、まだ、存在していました。
腎移植をして、まる8年経ちました。
移植人は、まだ元気です。
おかげで、能登の実家に移り住み、
90歳で独り住まいの父の世話を、単身赴任でやっております。
時々、地元の観光ボランティアガイドに駆り出されています。
能登に来られる際は、珠洲市観光協会にご連絡ください。
 
 

お元気ですか?

 投稿者:かおりん  投稿日:2016年 8月 9日(火)05時18分47秒
返信・引用
  もうこの掲示板は生きていないのかな…と思いつつ…
15年ほど前にみなさんにいろいろと教えていただいたかおりんです
なつかしさのあまり足跡残させていただきますね!
 

お米の販売

 投稿者:きんたろう  投稿日:2015年 4月 5日(日)23時26分23秒
返信・引用
  をしますので、ご希望の方は下記のアドレスまでご連絡下さい。

kintaro2_2001@yahoo.co.jp(@を大文字にしてあるので、小文字に打ち変えて下さい)


1袋(籾で25kgくらい)を送料込みで5000円。(着払い)
精米すると18kg~19kgくらいです。



茨城産コシヒカリ(H26)で、味的には「まあ、普通に美味しいコシヒカリ」と言ったところで、実際のところ、新潟のと比べて味が落ちるとは感じたことはありませんでした。一応茨城産コシヒカリはかなり美味しいとなっています。


実は、持っているお米が自分たちで食べるには多すぎるので、(^_^;)
 

(無題)

 投稿者:きんたろう  投稿日:2015年 2月 9日(月)00時47分35秒
返信・引用 編集済
  寺坂さん
お久しぶりです。

「よみがえる古代」の出版、おめでとうございます。

単位が混在しているというのは、時代を遡れば色々な分野で数多くあったように思います。

本を読んだら感想を書きますのでよろしくお願いします。

返事が遅れてすみませんでした。
 

『よみがえる古代』

 投稿者:寺坂国之  投稿日:2015年 1月15日(木)09時29分28秒
返信・引用
  謹啓
厳寒の候を迎えていますが、きんたろう様お元気でしょうか。本当にご無沙汰続きで申し訳ありません。
『氷解する古代』より3年を経てこの度、『よみがえる古代』を上梓することができましたのでご報告申し上げます。
本書は中国古代の短里(約77メートル)と長里(約430メートル)の問題をメインテーマとして、「邪馬台国問題」の解明を目指しているものです。
中国における古代史書の多くに、二つの里単位が混在している事実は、一般にも、あるいは古代史のマニアなどにも余り知られていないようです。しかしこれが「邪馬台国問題」を、混乱させた元凶の一つとなっていることは、その研究史が雄弁に物語っているようです。
一般に長里の方はポピュラーなのですが、短里の存在は「魏志倭人伝」などにおいて歴然としているにもかかわらず、全くのマイナーなので、その根本の物差しが何であるかさえも、確かな説はただの一つもありません。というよりはむしろ、短里自体の存在を危ぶむ論者が多数を占めているのが、これまでの古代史界の実態のようです。そうした中で精魂を傾けた結果、遂に短里の原点となる「貍歩(りほ)」の解明にこぎ着けることができました。
さらに今回、「魏志倭人伝」において「投馬国が不弥国および女王国と国境を接していた」という新発見があります。これは前著・『氷解する古代』で解明した「よみがえったもう一人の卑弥呼」と同様に古代史の盲点となっていて、未だかつてこの事実に気づいた歴史家はただの一人も存在していないようです。
更には「古代の闇からよみがえった大倭王、もう一人の卑弥呼!それは古代史の盲点だった!」「天の浮橋は博多湾に実在した!」「奴国は二度登場するから二国か? 実に分かりやすいウソだ!」「狗奴国と拘奴国は同音の別国だった!」といった問題についても論証しています。
私のような経歴の者が、「新発見」とか「解明」などとはおこがましいですが、古代の真実を一人でも多くの方にお伝えしたいという一心が書かせたものです。
出来うることなら本書をご一読いただき、ご批判、ご教示を賜りたいと存じます。未熟者ではありますが、どうかよろしくお願い申し上げます。
                              謹白
 

Re: 10年ぶりくらい

 投稿者:きんたろう  投稿日:2013年 2月14日(木)10時53分6秒
返信・引用
  > No.4211[元記事へ]

おお!

拝見しました。

グッドです。


私もHPを変更しようと思いながら何年も経ってしまっています。(^_^;


XPからVISTAに移したところまではやったのですが。。。


 

10年ぶりくらい

 投稿者:勇者ロト  投稿日:2013年 2月11日(月)12時15分4秒
返信・引用
  10年ぶりくらいにトップページを更新してみました。

中味は昔のまんまですけれど。。。。

http://www.cam.hi-ho.ne.jp/sakura-komichi/kodaishi/index.shtml

 

もう一つの

 投稿者:きんたろう  投稿日:2013年 2月 4日(月)14時14分41秒
返信・引用
  掲示板が1月いっぱいで終了してしまいました。

あの掲示板は、ログを無制限に保存出来たり返信機能のあるタイプだったので、申し分ないものだったので残念です。

「無料」なので、仕方ないといえば、確かにそうなのですが。。。


ネット環境がこれだけ劇的に変化すると、それに対応して色々と変化するためで、それを予測するのはほとんど不可能ですよね。
 

新年おめでとうございます

 投稿者:きんたろう  投稿日:2013年 1月 2日(水)00時50分30秒
返信・引用 編集済
  かなり「ご沙汰」状態ですが、皆様はお元気でお過ごしでしょうか?

毎年毎年、年を経るたびに忙しくなって、ネットもたまに見る位の時間しか取れなくなってしまいました。

はっきり言って「無駄に忙しい」ようなもので、やっている中身は全然大したことはないのです。
本当はこんな状態から早く脱却したいのですが。。。


年末は確かに慌ただしくて「年末」という気分を味わったのですが、今日は元旦だという感じも無いままに「部落の新年会」(いかにも田舎そのものの表現!笑)。

いくら近所の人達とは言っても、生活で共通点が全くと言っていいほど無い人たちとの2時間はかなり苦痛でした。

それに、共通点が無いにもかかわらず、自分の言いたいことだけを言いまくっている人がいたりして。。。

ただただ疲れるだけの時間になりました。

こんな事も、過疎化の大きな要因になっていると思います。



ところで、皮長さんにお願いなのですが、特定の個人を対象にした今回のような書き込みは止してくださいね。

幾つかの面で勘違いされていると思うんですよ。
 

先週は

 投稿者:きんたろう  投稿日:2012年 7月15日(日)00時53分21秒
返信・引用
  茨城弁変換softを作ったぱんださん主催による「遠足」に参加してきました。

出かけた先は、石岡にある風土記の丘や茨城空港などです。

風土記の丘は、石岡に常陸国の国府が置かれていたのに因んで造られた公園で、それなりにノンビリとできる場所になっています。

茨城空港から神戸便が出ているので、案外神戸は近いと感じました。

それにこの付近は、伊勢平氏の本家に当たる常陸平氏の本拠地。
 

久しぶり

 投稿者:きんたろう  投稿日:2012年 7月 4日(水)00時48分13秒
返信・引用
  に海外旅行をしてきました。

成田空港に入ったのは、6年前のラスベガス旅行以来でした。

記憶が全くなくて、未知の世界と変わりませんでした、(^^ゞ)


今回の旅行先は台湾です。

台湾は成田から4時間くらい?なので、手頃に出かけられる場所です。


台湾は日本の次に経済発展をした場所だからなのでしょうか?

台北のビルは古いのが多いというのが印象でした。

また、看板も日本で使っているものとは若干の違いはあるにせよ、様は漢字なので分かりやすい、

というわけで違和感をほとんど感じることがなく、スムーズに入る事が出来ました。

で、何の目的で出かけたのかと言えば。。。本場の「小籠包」を食べることでした。

東京にも小籠包の店はありますが、台湾の小籠包はさすがに本場だけのことはあって、本当に「激うま」でした。
 

お買い上げありがとうございます

 投稿者:べっちゃん  投稿日:2012年 6月10日(日)00時42分11秒
返信・引用
  無事届いて良かったです。

どうぞ、楽しんでください。

http://seisai-kan.cocolog-nifty.com/blog/

 

Re: 復帰しました

 投稿者:きんたろう  投稿日:2012年 6月 9日(土)19時23分21秒
返信・引用
  > No.4178[元記事へ]

安部さん、早速送っていただきましてありがとうございました。

すぐに届きました。

「易しい易」は思っていた以上にボリュームがあって、約200ページもの大作には驚かされました。

なので、まだよく目を通していないのですが、わくわくする気持ちが分子の不連続運動のような感じになってきました。(^^;


 

復帰しました

 投稿者:きんたろう  投稿日:2012年 6月 4日(月)23時56分23秒
返信・引用
  PC環境がごじゃっぺ状態にあって、手のつけようがない位だったのですが、ようやく旧式のPC and 周辺機器を処分することができました。

なので、これから徐々に戻ります。

 

易経の解説本を出版しました

 投稿者:べっちゃん  投稿日:2012年 4月30日(月)22時14分15秒
返信・引用
  易経を解析した本を自費出版しました。
といっても占いの本ではなく、むしろ易経は占いの本ではなく
百科全書的な書物であったことを明らかにしています。

こちらに説明と映像があります。
http://seisai-kan.cocolog-nifty.com/blog/2012/04/post-650a.html

通信販売も承っておりますので、興味がありましたらメールでご注文ください。

http://seisai-kan.cocolog-nifty.com/blog/

 

Re: 謹賀新年

 投稿者:きんたろう  投稿日:2012年 1月28日(土)16時40分6秒
返信・引用
  > No.4175[元記事へ]

ペギラさん、もの~すごく久しぶりです、(^^ゞ


ありがとうございます。

おっしゃるとおりです。


首都圏直下型地震が4年以内に起こる確率が70パーセントだと発表されましたが、昨日、今日とまた揺れが起こりました。

このままで行くと、「幕府崩壊」もあるかも?と本気で思えてきます。

今年の梅雨明けには、地震の片付けをしたいと思っているのですが。。。

ノートPCは手軽で良いけど、キーボードで打ち込む作業となるとデスクトップの出番ですね。(^^ゞ


 

Re: 謹賀新年

 投稿者:ペギラ  投稿日:2012年 1月23日(月)23時39分25秒
返信・引用
  > No.4174[元記事へ]

きんたろうさんへのお返事です。

なにかと、大変だと思いまして、

じっと きんたろうさんからの発信をまっておりました。


大丈夫ですね。

 

Re: 謹賀新年

 投稿者:きんたろう  投稿日:2012年 1月 9日(月)14時45分4秒
返信・引用
  > No.4173[元記事へ]

新年おめでとうございます。

いかがお過ごしでしょうか?

今年の正月は寒いけど穏やかな陽気が続いています。


早いものであの大震災から9ヶ月が経ちましたが、12月くらいから地震が活発化しているような感じなので、何というか落ち着きませんね。

特に、茨城県北部を震源地とする小規模な地震は、日常的に起こっていると言っても過言ではないので。


地震に対しては、うんざりする気持ちと崩壊に対する恐怖心が心の根を下ろしてしまいました。



ネットやPCや歴史の話も、もっともっと時間をかけて楽しみたいと思いつつ何年も経ってしまいました。

思い起こせば、ネットを始めた頃はウインドウズ3.1で、それから95になって98にして2000年問題があったのは12年前のこと。

あの頃は、通話大節約のために深夜にネットをしてばかりの「夜更かし大王」や「夜更かし女王」が!(^^ゞ


あの中で殆ど全てを話し合うことができた事に対して、ネットに感謝しました。

あの時を共有した仲間との絆は本当に有り難いものだと思っています。


 

謹賀新年

 投稿者:勇者ロト  投稿日:2012年 1月 5日(木)07時57分11秒
返信・引用
  ここ数ヶ月、新しいネタもなく、何かしら精神的疲れも多く書き込みを
する気力もなくなっておりましたが、楽しみから遠ざかりすぎるのも
精神的にもよくないと思いますし、いろんな意味でこのままではいけない
と思っています。

今年もよろしくお願い申し上げます(^^ゞ

http://www.cam.hi-ho.ne.jp/sakura-komichi/kodaishi/index.shtml

 

Re: Windows7

 投稿者:きんたろう  投稿日:2011年 7月 5日(火)20時56分51秒
返信・引用 編集済
  > No.4169[元記事へ]

本にするのがまとめるには非常によいというのは、正にそのとおりだと思います。

ある程度のボリュームのものを作り上げて初めて説得力があり、かつ、整合性をもった論文になるからです。

そして出来上がった作品をチェックすると、自分の中では論理的に出来上がっていると思えるのに、表現力不足だったりとか、整合性を欠いていること気がついたりするものですよね、(^^)


「呪の思想」を手にした時の感動を思い出しました。

 

Windows7

 投稿者:べっちゃんメール  投稿日:2011年 7月 3日(日)22時09分23秒
返信・引用
  超漢字VはWINDOWS用のソフトなので、マック上でWINDOWSの
ソフトを動かすFUSION3を入れ、FUSION3の仮想マシンの中で
超漢字Vを動かしています。

超漢字の版元のBTRON(超漢字はコンピュータ言語TRONで作られた
国産のOSです)によりますと、FUSIONにWINDOWS7を入れれば
プリントができるそうですが、お金が足りないのでこれはまた今度ですね。

今は超漢字を使ってどんどん金文と口語訳と解説を打ち込んでいます。

ある程度書けたら、金文の拓本もつけて自費出版で本にしようかなと
思っています。本にするのが研究をまとめるのには非常によいの
ですよね。
 

超漢字ですか!

 投稿者:きんたろう  投稿日:2011年 7月 3日(日)02時16分16秒
返信・引用
  どんな漢字も出てくるというのは、すごいですね。

印刷が出来ないというのは、マックというよりもプリンタードライバーが「超漢字」に対応していないから?かも。

ところで、我が家でもようやく地デジ難民から脱出することが出来ました。

立地条件も配線も全てオーケーなのに、受信レベルがぎりぎりなんです。

原因は多分ですが。。。

2階から回している配線は何カ所か留め金で固定してあるわけですが、固定してあるために大震災で線が伸びたか切れかかってしまった。

で、水道管が伸びきったり切れてしまったのと同じような状況になってしまったから、というところのようなんです。

屋内配線も影響を受けているとは、考えもしませんでした。
 

超漢字を入れました

 投稿者:べっちゃんメール  投稿日:2011年 7月 1日(金)14時29分12秒
返信・引用
   現在のOSでの漢字入力に限界を感じたので、「超漢字V」を買いました。

 どんなややこしい漢字でも出てくるぞ、これはすごい!

 Macなので印刷ができないのが難点ですが、まあこれは何らかの解決法があるでしょう。これで好きなだけ金文や春秋に関する論文が書けます!
 

一次資料

 投稿者:べっちゃんメール  投稿日:2011年 6月28日(火)22時27分48秒
返信・引用
  日記とか手紙とか行政文章といった一次資料が
著しく不足している支那において、
金文というのは数少ない一次資料なんですよね。
だから非常に貴重なんです。
 

土地取引とか、裁判の判決とか

 投稿者:べっちゃんメール  投稿日:2011年 6月28日(火)22時22分32秒
返信・引用
  を記した金文も見つかっていますので、記録・証拠としての
実用的な意味合いが非常に高かったのだと思います。
文字自体への信仰もあったと思います。

でも商の青銅器の場合、巨大で豪華な装飾がほどこされた
青銅器にはかえって文字は彫られておらず、
装飾が少ない日用品らしき青銅器に
文字が彫られている傾向がありますので
文字がついているから価値が高いという決まりがあったわけでもないようです。
 

金文

 投稿者:きんたろう  投稿日:2011年 6月27日(月)00時07分51秒
返信・引用
  の歴史的史料価値が高いというのはよく分かるのですが、青銅器に文字を入れる(というか刻むというか)技術もすごいレベルですよね。

で、文字を入れた青銅器の方が、褒美等で相手に与える場合に、他の模様よりも価値が高かった?のかなと思いました。
 

普通のOSで

 投稿者:べっちゃんメール  投稿日:2011年 6月19日(日)08時20分52秒
返信・引用 編集済
  古代支那に関する文章を書くのには無理がありますね。
漢字がない。
古代日本史でも少し無理があります。
ATOK入れても。

来月ボーナスが入ったら、「超漢字」を使える環境にしようかなと思っています。
 

Re: つまり土地の

 投稿者:hn2602  投稿日:2011年 6月13日(月)00時19分17秒
返信・引用
  べっちゃんさんへのお返事です。

> 所有権を認めなかったと言うことですよね。東夷に。

 そうだと思います。
 ただ、商民族と同系、或いは類縁の東夷諸部族の内、「都市国家」を形成していたものは、周に降伏すれば、そのまま、諸侯に封ぜられたでしょうし、「都邑」つまり城郭都市を建設せず、分散して居住していたもの(狩猟・農耕・漁撈などの生業を主とするもの)は、特に周に反抗しない限り、放置されていたと思います。
 都市国家に住んでいたが、周によって諸侯と認められない者が、殷民五族や六族、殷の八師などと称された、殷の遺民であって、彼らは周の一族や同盟者に分配され、彼らの建設する都市国家=封建された諸侯国の住民として、配属されたと思われます。当然、彼らには、財貨を与えるのみだったでしょう。封建された諸侯は、自身の都市国家を維持するために、外延に更に一族や重臣を配置して、城砦都市を建設せしめ(邑)、これを封邑(食邑)として与えた、という形で、周の世界が構成されていたと思われます。
 要するに、殷も西周も、「領域国家」ではなく、「都市国家」の集合体だったのでしょう。殷の場合は、その都市国家間のネットワークを、軍事遠征(祭祀の犠牲を得るため、鹿卜に必要な鹿の骨を得るための狩猟もこれに入るでしょう)と交易(亀卜に必要な海亀の甲羅や財貨としての南方の貝を手に入れる)で主に結びつけていたのだと思われます。
 春秋遠国時代に至り、おそらく周王に従わず、独自に「王」を称した夷蛮の諸国楚(荊)、呉、越、徐、或いは蜀・巴などが、「領域国家」だった事の影響下に、周に封建された諸侯国の領域国家化が始まり、周王朝の権威の没落(凋落)につながったのでしょう。「凋落」と言う語の「凋」に「周」の字が含まれるのは何か意味があるのかもしれませんね。
 

つまり土地の

 投稿者:べっちゃんメール  投稿日:2011年 6月 8日(水)21時29分39秒
返信・引用
  所有権を認めなかったと言うことですよね。東夷に。  

周は、従属した殷系諸族に

 投稿者:hn2602  投稿日:2011年 6月 8日(水)20時45分46秒
返信・引用
   褒美として、「貝」を与えたそうですね。
 しかし、姫姓や姜姓諸族には原則として、貝を与える事はなかったそうです。
 貨幣に「貝」偏の文字が使用されるのは、「商人」つまり「大邑商」(都市国家としての殷)の人々やその子孫が、「貝」を通貨とした事によるのでしょう。金石文の解釈の際にも、貝を与えられていれば、与えられた者が、商民族か東夷系の人物であるか、或いは、配下に編入された殷民に対する褒美にする前提で授与されたのでしょう。
 

東夷系の儀礼従事者

 投稿者:べっちゃんメール  投稿日:2011年 6月 7日(火)07時59分36秒
返信・引用
  静(皀殳)、西周前期、出土地不明

(金文)隹れ六月初吉、王(方)京にあり。丁卯、王静に命じて学宮に(司)射せしむ。小子と服と小臣と夷僕、射を学ふ(ならふ)。ここに八月初吉庚寅、王呉□・呂剛を以いて(ひきいて)、・・・邦周を御し、大池射す。静学へて(をしへて)、斁ること(やぶること)無し。王静に鞞豕を易ふ。静敢へて拝して稽首し、天子の丕顕なる休に対揚して、用て文母外姞の奠(皀殳)を作る。子々孫々、それ萬年まで用ひよ。

(和訳)六月初吉、王は(方)京にあり、丁卯、王は静に学宮における郷射の司会を命じた。小子と服と小臣と夷僕とが射事を習った。八月庚寅、王は呉□・呂剛を会して、大池に競射を行ったが、静の指導には遺漏がなかった。それで王は剣帯に用いる鞞豕を賜った。静は王休にこたえて文母外姞の器を作ったのである。(訳文、二玄社「金文」より)

(解説)(方:上から草冠+方+廾)京は周の神都。そこに辟雍があり、学宮や大池など、儀礼を行う施設があった。小子・小臣などはみな東方系の身分称号で、この種の儀礼には東方の族も参加した。詩に殷士膚敏、京に裸将すと歌われている物がそれである。静には他にも射で褒美を得て器を作っている例がある。従って静もまた東方出自の者である。(解説、二玄社「金文」より)
 東夷が射撃に優れ、宮廷で開かれる儀礼で射撃を披露していたことが分かります。日本の朝廷でも射撃の武術は、魔除けとして重視されました。

静卣。西周前期、出土地不明

(金文)隹れ四月初吉丙寅、王(方)京に在り。王静に弓を易ふ。静拝して稽首し敢へて王の休に対揚して、用て宗彜を作る。それ子々孫々、永く宝用せよ。

(和訳)四月の初吉丙寅の日、王は方京にいらっしゃった。その時に静に弓を賜った。静は王休にこたえて宝器を作った。子々孫々、これを家宝として大事にしなさい。

(解説)同じく静に与えられた銅器。

矞(皀殳)、西周前期、出土地不明

(金文)隹れ六月既に生覇、穆王方京に在り。呼びて大池に漁せしむ。王饗酒す。矞御して譴(とが)なし。穆王親しく矞に□を易ふ。矞拝首稽首し、敢えて穆王の休に対揚して、用ひて文考父乙の奠彜を作る。それ孫々子々、永く宝とせよ。

(和訳)王の六月新月を過ぎた頃、穆王は方京にいらっしゃった。臣下を呼び集めて大池に漁の礼を行い、王は饗酒の礼を設けた。矞(矞にしんにょう)はその礼に奉仕して遺漏がなかった。そこで穆王は親しく矞に□を賜った。乙は拝首し稽首して王の休にこたえ、文考父乙の器を作った。子々孫々これを大事にしなさい。

(解説)文考父乙は東方系の祖神。矞もまた東方系の臣と推測される。周は王の権威を高めるために、一歩先を進んでいた商の儀礼を取り入れ、成周の都ではたくさんの東方系の臣が儀礼に携わっていたのではないかと考えられる。
 漢の時代に古代の礼の形が日本に残されているのではないかという説が出て、漢や魏が倭国に強い興味を抱いたのはそれが原因の一つなのですが、元々周の礼は東夷(商)の礼を受け継いでいるという知識が当時はまだ残っていたのではないかと考えられる。
 

彔伯冬

 投稿者:べっちゃんメール  投稿日:2011年 6月 4日(土)13時49分43秒
返信・引用 編集済
  彔伯卣、西周前期、出土地不明

(金文)王冬に命じて曰く、ああ、淮夷敢へて内国を伐つ。女それ成周の師氏を以いて、于古師に戌れと(まもれと)。伯雝父、彔の暦を蔑はし(あらはし)、貝十朋を易ふ。彔拝して稽首し、伯の休に対揚して、用ひて文考乙公の宝奠彜を作る。

(和訳)王は冬に命じておっしゃられた。嗚呼、淮夷が我が国の領土に攻め込んできた。お前は周の軍隊を率いて、于古の基地でそれを防衛せよ(そして見事に任を果たした)。伯雝父は冬の軍功を書き写した表を器に入れて、冬に貝十綴りを賜った。冬はこれを恭しく頂戴し、伯の褒美を記念して文考乙公の宝器を作った。

(解説)以前にも紹介した冬の銅器です。「金文」の解説にも、当時の淮夷は淮河上流に住み、成周の本拠地近くにも出没していたのではないかと推測があります。文考乙公は冬方鼎に出てきた文祖乙公と同じでしょう。

 次の彔伯冬(皀殳)の解説によると、冬は商の遺臣であるらしいです。虎臣は周が商を滅ぼしたときに再編成した、商に服属していた東夷系の部族の軍隊らしいので、冬は虎臣の司令官であったのかもしれません。

 服属した部族を、かつての仲間の攻撃の先鋒に使うのは古今東西軍法の常道でした。忠誠心を試すのと、お互いを弱体化させるのと、服属部族がその地域を知悉しているためです。

彔伯冬(皀殳)、成周前期、出土地不明
(金文)唯王の正月、辰(とき)は庚寅にあり。王若くのごとく曰く、彔伯冬よ。ああ乃(なんじ)の祖考より、周邦に勲有り。四方を佑闢し、天命を恵張せり。女肇て墜されず。余女に秬鬯一卣、金車、(夲長)、朱虢斤、寅皀朱裏、金甬、畫昏、金厄、畫甫、馬四匹、攸勒を易ふ。敢へて拝手稽首し、天子の丕顕なる休に対揚して、用ひて朕が皇考釐王の宝奠(皀殳)を作る。余それ永く萬年宝として用ひよ。子々孫々、それ師刑して茲の休を受けよ。

(和訳)王の正月。庚寅の日。王はこのようにおっしゃられた。「彔伯冬よ。ああお前は祖先の代より周のために働いて勲功があった。四方をへめぐり、尊い王の威光をみなぎらせた。お前は守って攻め落とされることがなかった。そこでお前に柄杓、鍋、金銅で飾った車(湯の金車)、皮革を巻いた横木、弓袋、朱の車屋根、斤は未詳(戦車に附属する装飾か?、戦車を覆う皮革、馬をつなぐ金具、等を与える」冬は恭しく褒美を受けた。ここに王のありがたい御心を記念して、私の祖先釐王を祀る宝器を作った。我が子孫は永くこれを宝として、王のために戦い、王の恩寵にあずかるように。

(解説)冬の西周防衛の勲功はかなり大きかったと見え、たくさんの銅器が残されています。戦車兵の装備の資料としても重要です。易経でも見かける意味不明とされてきた文字も出てきます。
 彔伯冬はその父を釐王と称しており、商の有力な部族。あるいは服属した東夷の高位の人間と推測されます。二玄社の「金文」によると、釐王とは他の金文に天子聖の名で見える山東省にいたらしい強力な豪族で、成王の時代に周に反抗して亡ぼされたと記録ではなっています。これを祿父の叛といいます。
 王姜は「金文」によると成王の妃の可能性があるそうです。しかし、そうなると邑姜が武王の妃、成王の母として実権を握ったのに引き続いて、同じく羌族の出身であり、多分邑姜とも親戚である、王姜が引き続き子の康王や孫の穆王の時代にも実権を握ったと言うことになり、前期の西周は長年にわたって羌族の女性に実権を握られていたと言うことになります。
 穆王の孫の懿王の時に西戎の侵攻にたえかねて西周は遷都しており、弟によって王位が奪われるなど混乱し、懿王の子の夷王の時に西周は諸侯を糾合して斉を攻めて斉の哀公を鼎で煮ています。斉が西周の王宮に対して影響力を失うのと、西周の衰微が符合していて面白いです。
 さて彔伯冬が西周から重用されていることから、反抗した釐王は必ずしも殺されたのではないかもしれません。以前にも指摘したように、彔伯冬の母親、すなわち懿王の妃は、王姜の要請で鼎にまで名前が刻まれています。釐王が山東省の有力な豪族であったとすると、彔伯冬の母親、乃ち釐王の妃は斉の王室からお嫁に行った姫君かもしれません。だとすると、王姜の姉妹、もしくは叔母・姪の可能性が高いことになります。
 だいぶ想像が入りますが、山東省の強力な東夷の豪族である釐王が斉と婚姻して同盟関係を結んだけれど、何らかの理由で西周との間で一次敵対関係に陥った。その後、釐王の妃の姉妹である王姜を通して周・斉・彔伯冬(釐王の子)は和解し、彔伯冬は虎臣(服属した東夷で構成される強力な弓兵)を率いて周のために淮夷を攻撃して大いに戦果を上げた。という歴史が想定されます。
 服属した東夷の一代目だった釐王はまだ中原への警戒心が強く、子の彔伯冬に代替わりしてやっと完全に中原に帰化したのではないでしょうか。
 

殷の八師

 投稿者:べっちゃんメール  投稿日:2011年 6月 4日(土)11時23分18秒
返信・引用
  たくさんの軍隊、複数の部族を糾合した軍隊という意味を
甲骨文の時代から八師と呼ぶのですが、
師あるいは師の字の左半分(掲示板には表示されないです)は
生け贄の肉や軍旗を掲げて進軍することを意味する漢字ですので
これは「八幡(やはた)」と同じ表現なんですよね。

軍隊のことを旗で象徴するのは北方アジア共通の風習で
他には清の満州八旗、蒙古八旗などがあります。
匈奴や蒙古も大軍のことを王の腕とか翼と表現します。これも旗に近い。

だから八幡神社は、商の末裔か、あるいはもうちょっと後に
朝鮮半島から帰化してきた騎馬民族が定着した跡を
意味しているのかもしれません。
 

小臣速き(皀殳)

 投稿者:べっちゃんメール  投稿日:2011年 6月 4日(土)01時51分57秒
返信・引用 編集済
  (杢犬)(皀殳)、西周前期(康王・昭王・穆王)
(金文)(杢犬)うまがけして、王の南征に従ひ、楚荊を伐ち、得する有り。用ひて父の戊宝奠彜を作る。□

(和訳)(杢犬)は騎馬で?王の南征に従軍し、楚の国を攻撃し、捕虜を得た。それを記念して宝器を作った。

(解説)西周四代目昭王五十一年の南征の記事と考えられる。この遠征で昭王は漢水にて溺死している。西周初の本格的な外征。

過伯(皀殳)、西周前期(康王・昭王・穆王)
(金文)過伯王の反荊を伐ちて、金を孚れり(とれり)、用ひて宗室の宝奠彜を作る。

(和訳)過伯が王が反抗する荊(楚)を攻撃するのに従って、金属を獲得した。それを使って我が一族の宝器を作った。

(解説)上の金文と同じ戦役を刺すと考えられる。字体も似ている。

小臣速こ(皀殳)、西周前期(康王・昭王・穆王)
(金文)ここに東夷大いに反する。伯予父、殷の八師を以いて(ひきいて)東夷を征す。唯十又二月、克師より遣はされて、述に(つひに)東し、海眉を甲伐す。ここにそれ復帰して、牧師に在り。伯予父、王命を承けて、師に五より率征して禺せる貝を易ふ。小臣速蔑暦さられ、および貝を易ふ。用ひて宝奠彜を作る。

(和訳)東夷が大反抗をした。伯予父は殷の八つの軍隊を率いて東夷を攻撃した。十二月克の基地より、東に出撃し、沿海部まで?攻め込んだ。戦役が終わって牧の基地に復帰した。伯予父は、王から褒美として五禺の?貝を賜った。小臣速も貝を褒美として賜った。それを記念してここに宝器を作った。

(解説)西周前期の銅器と推測。伯予父は周の将軍。これ以外にも様々な金文で名前が出てくる。東夷の征伐には多く殷の軍隊が使われた。殷(宋)の軍隊を使っているので、山東の南部方面の東夷を攻撃したのではないだろうか。
 三監の乱があったのが成王の元年~三年頃。紀元前十一世紀の後半。引き続いて成王四年に淮夷の反乱が発生している。殷の反乱である三監の乱と淮夷の反抗の間には何らかの繋がりがあるのかもしれない。たとえば、淮夷の攻撃に絶えきれなくなった殷が周に攻撃を仕掛けてきたのかもしれない。
 ほぼ同じ頃に、日本で新しい形式の土器(亀が岡式土器、凸帯文土器)が流行。この東夷征伐で亡命してきた工人が新しい土器を広めた可能性もあると考えられる。最初期の水田稲作もこの頃に日本列島へ渡来したとされている。
 これ以降、周が東夷征伐を直接指揮するようになる。
 康王、昭王、穆王の時期は紀元前十一世紀の後半から紀元前十世紀にかけて。小臣速(皀殳)はこの三代の時期に行われた大規模な東征を伝えていると考えられる。
 

金文をさらにコピーしてきました

 投稿者:べっちゃんメール  投稿日:2011年 6月 4日(土)00時31分41秒
返信・引用
  年休が取れたので、白金台の中央図書館へ行き
1960年代以前の主要な金文もコピーしてきました。
60年代より以前に掘り出された銅器は
考古学的調査を経て掘り出された物ではないので
出土地や地層が不明になっている遺物が多いのが難点ですが
重要な遺物が多いです。

東夷系の史料もかなりありました。

それと、郭店楚簡の研究もコピーしてきました。
郭店楚官は1993年に湖北省荊門市で出土した戦国時代後期の
竹簡です。楚の太子の帝王学のテキストと推測されています。
始皇帝によって統一される前の南方の漢字の使い方、
南方の思想。主流とは別系統の儒学などがたどれる貴重な資料です。
 

なるほど

 投稿者:べっちゃんメール  投稿日:2011年 6月 3日(金)09時27分47秒
返信・引用
  古代支那の銅器の場合文字が書いてあるからと行って必ずしも
重要な勢力に与えられた物とは限らないのですか、
そういえば立派な銅器ほどゴテゴテしていて字を書き込む余地がないような
確かに喀左県で出土している銅器は装飾が少ない日用品が多いです。
面白いですね。
 

Re: 遼寧省の喀左県

 投稿者:hn2602  投稿日:2011年 6月 1日(水)18時54分42秒
返信・引用
  べっちゃんさんへのお返事です。

> 遼寧省の喀左県(北京の北方数百キロ)で大量に商の銅器が出土しています。
> 金文は短くて、どういう背景をもった銅器なのか分からないのが
> 難点ですが、非常に多いです。これもコピーしてきました。
> 召公が報じられたという燕かもしれません。
> (というか多分この考古学資料を根拠に召が商と共通の祭祀を
>  もっていたという説が出たのではないでしょうか?)

 そうかも知れませんね。甲元真之著『東北アジアの青銅器文化と社会』(同成社)と言う本を持っていますが、そのp49などに喀左県の遺跡についての話が少し載っています。それによると、殷との関係でも下位グループだと評価されています。遼寧や熱河には殷代(安陽遷都後)に殷系勢力の進出が見られるそうです。
 そのほか、AMS炭素年代法により、編年が変って来ているようです。

> 本来夏系部族の都市国家と夷系部族の都市国家の間に
> 広く都市生活を営まない東夷やら羌族やらが分布して
> 緩衝地帯になっていたのが、
> 商が祭祀のための遠征を繰り返したことで、
> 黄河中流域でで商と周が直接に接することになってしまい
> それが牧野の戦いにつながったのかもしれませんね。

 それ以前に召(方)や、鬼方、土方、夷方など、周辺の諸方(邦)とももめていますから、殷の強大化、専制化に対する抵抗が大きかったのでしょうね。

> 私は商と周の間には婚姻関係があったと考えています。

 あったかもしれませんが、殷の十干からなる王族の族内婚ぶりを見ると、存在したとしても、あまり意義はなかったと思います。或いは、伐殷の途中に周が、婚姻を結んだのかもしれません。

> ブログに書きましたので読んでみてください。

 後日、ゆっくり拝見させていただきます。

> 斉が牧野の戦い以前に既にあったというのは初めてききましたが
> 十分にあり得ることだと思います。

 これは、山川出版社『中国史Ⅰ』にあります。平勢隆郎緒「『春秋』と『左伝』」には、松丸道雄氏のの殷の田猟地が、その都市から半径40km以内に有り、殷や西週初期の支配領域はきわめて狭く、これらは「都市国家」だったとしています。つまり、各都市=諸侯の国であり、その中間の地域は、都市に近くなければ、支配下にはなかったのです。

> 斉の王家というのは太公望の子孫なのかどうかはっきりしないのですが
> 太公望は斉の王家の分家とか使者で、周と羌の連合軍を
> 作るために周に派遣されたのかもしれないですね。

 やしかに、太公望の名が「呂尚」と言うのは、「呂」(姜姓)国の君主かその一族でしょうから、おかしいですね。或いは、「姜子牙」なのかもしれませんが、「姜」は「姓」で実際には、種族名か部族名でしょう。とすると、名の「子牙」は、殷が「子姓」とされる事になったその爵位「子〇」と言うことに成り、或いは、殷の爵位を受けた王族である可能性が出てきます。それも考え難いのですが、結局太公望の本名は不明だという事になるのでしょうね。

> 「近出殷周金文集成」を読んだ感じでは、もともと少ない西周の
> 金文史料に占める東夷の記事はむしろ多い方と言えるかもしれません。
> 周が西周から春秋にかけて東方に領土を広げていったことからも
> 周にとって東夷の征服というのは優先度の高い政策だったのではないでしょうか。

 むしろ周民族の人口増による植民都市建設運動だったのかもしれません。

> 商は(姓の原理で言うところの)近親婚をしているらしいので
> 姓の原理はなく、商が持っていた氏族の原理は日本人の「氏」の原理に近いかもしれません。

 私はそう思っています。「ウヂ」の発生を、五世紀頃に置くのは明らかに間違いだと思います。『魏志倭人伝』にも「宗族」と言う語彙が特に説明なく出てきます。これは中国人の理解する父系制氏族が少なくとも、倭人支配階級には存在していた証拠だと思います。

> 周の東夷征服を詳細に調査すれば、古代日本史を立体的に捉えられるように
> なりそうですね。

 そう思います。
 

遼寧省の喀左県

 投稿者:べっちゃんメール  投稿日:2011年 5月29日(日)21時15分43秒
返信・引用 編集済
  遼寧省の喀左県(北京の北方数百キロ)で大量に商の銅器が出土しています。
金文は短くて、どういう背景をもった銅器なのか分からないのが
難点ですが、非常に多いです。これもコピーしてきました。
召公が報じられたという燕かもしれません。
(というか多分この考古学資料を根拠に召が商と共通の祭祀を
 もっていたという説が出たのではないでしょうか?)

本来夏系部族の都市国家と夷系部族の都市国家の間に
広く都市生活を営まない東夷やら羌族やらが分布して
緩衝地帯になっていたのが、
商が祭祀のための遠征を繰り返したことで、
黄河中流域でで商と周が直接に接することになってしまい
それが牧野の戦いにつながったのかもしれませんね。

私は商と周の間には婚姻関係があったと考えています。
ブログに書きましたので読んでみてください。
http://seisai-kan.cocolog-nifty.com/blog/2011/05/post-c86e.html#more
http://seisai-kan.cocolog-nifty.com/blog/2011/05/post-b636.html
http://seisai-kan.cocolog-nifty.com/blog/2011/05/post-5655.html

斉が牧野の戦い以前に既にあったというのは初めてききましたが
十分にあり得ることだと思います。
斉の王家というのは太公望の子孫なのかどうかはっきりしないのですが
太公望は斉の王家の分家とか使者で、周と羌の連合軍を
作るために周に派遣されたのかもしれないですね。

「近出殷周金文集成」を読んだ感じでは、もともと少ない西周の
金文史料に占める東夷の記事はむしろ多い方と言えるかもしれません。
周が西周から春秋にかけて東方に領土を広げていったことからも
周にとって東夷の征服というのは優先度の高い政策だったのではないでしょうか。

商は(姓の原理で言うところの)近親婚をしているらしいので
姓の原理はなく、商が持っていた氏族の原理は日本人の「氏」の原理に近いかもしれません。

周の東夷征服を詳細に調査すれば、古代日本史を立体的に捉えられるように
なりそうですね。
 

Re: 金文資料を集めてきました

 投稿者:hn2602  投稿日:2011年 5月29日(日)20時52分48秒
返信・引用
  > No.4145[元記事へ]

べっちゃんさんへのお返事です。

>  夷と倭の金文資料について、私も興味を持ちましたので、調べてみました。東京都立図書館に問い合わせたところ、二松学舎大学が出している「近出殷周金文集成」の第一巻から第五巻(1960年代~95年)が蔵書にあるとのことでしたので、立川まで行って必要な部分をコピーしてきました。
>
>  夷の使用例は4つ、倭はありませんでした。他に西周初期の遼寧省出土の銅器、淮戎の金文、楚の金文、呉越の銅剣、商の銅戈などなど色々と面白い資料が手に入りました。夷を直接扱った資料は4つだけですが、周辺国の資料も手に入りましたので、色々と面白いことが分かりそうです。よろしければhnさんにもコピーして送ります。私の方へメールください。

 有難うございます。後日、連絡させていただきます。実は母が、左大腿骨転子部骨折を受傷し、入院手術を受け、入所していた施設からその荷物を自宅に引き取ったため、部屋が片付かず、もう少し落ち着いてから、是非ともお願いしたいと思っています。

>  今日コピーできた夷の金文資料を一つ紹介します。資料には銅器の写真と拓本と楷書に書き起こした金文が載っています。書き下し文と現代語訳は私が考えて書きました。
>
>  史密簋、西周中晩期(恭王~厲王)、陝西省出土
>
> □十又一月、王師俗史密に命じて曰く、東征して南夷を(攻)めよ。廬虎、杞夷、舟夷、雚、墜ずして会す。広く東国を伐つ。斉師族徒馭人乃ち図寛亜を執りて、師俗斉師馭人□□を率いて、長必を伐つ。史密玄族人釐伯棘師を司わし周長必を伐ち、百人を獲らふ。揚くして休みし天子、対し、もって朕、文を考へ乙伯が尊箇こを作る。子々孫々それ永く宝として用ひよ。
>
>  十一月王は司令官の史密に命じた。東に攻め込み南夷を攻めよ。廬虎、杞夷、舟夷、雚、は降伏せずに集合して対決の姿勢を示した。そのため広く東国を攻めた。斉の軍隊は長必を攻めた。史密は玄族人釐伯棘師を応援に送って周も長必を攻めて、百人の捕虜を得た。天子はこれを賞し、私はそれを記念して顕彰文を考え、乙伯が(それを記した)この器を作った。我が子孫はこれを家宝として大事にしなさい。
>
>  杞は河南省開封市の近くで、古代支那史で言えば宋の西、斉の南にあたります。ですのでこれは周と斉の連合軍が間にいた夷を攻めた記事です。南夷と呼んでいることから、夷が西周の中期に現在の河南省と河北省に分布していたと推測されます。

 「四夷」と言う語彙もあり、周は、殷系諸族を広く夷と呼んでいたらしいので、南夷、東南夷、或いは淮夷(淮水の流域にいた)や徐夷など、多くの夷の名が現れますが、おそらくその中には、殷代の「南」人とされた者も一部含まれているのではないでしょうか?或いは「四夷」は、異民族の総称として使用されたのでしょう。

>  周と諸侯の斉の間に夷が広く分布していたのは不思議な気がしますが、当時の河南省と河北省は川が縦横に走り、湿地帯でした。中原の周族や羌族は元遊牧民でしたので、湿地帯は苦手だったのでしょう。

 同様にチベット系の羗族は、広く東方にも分布し、その最東端にいたのが、斉だったと考えられます。現在、斉は既に殷周革命以前に山東にあり、殷が同系の夷族である「夷方」(「人方」)などと争っている間に、背後を襲ったと考えられています。羗族が漢化(と言うより「夏化」?)したのが「姜姓」ですが、どうもこの「姓」と言うのは、周などの遊牧民族系統の組織原理らしく、殷には本来「姓」はなかったようです。「氏」のほうが、古いのではないかと私は思っていますが。
 斉等の羗系遊牧民が、草原沿いに東方に分布したのに対し、農耕民の夷系諸族は河川流域に分布していたのだと思います。農耕化が進展して森林が切り開かれて、草原が生ずると、遊牧民も進出しやすくなったのでしょう。

>  舟夷と金文にもありますので、夷は中原の部族が苦手とした湿地帯に広く居住していたのだと考えられます。

 「召方」([女吉]姓)は、殷の西方の大族ですが、やはり殷に類似した祭祀を有したのではないでしょうか?これが殷に近い民族であれば、夷系諸族は、本来、黄河中流域まで分布していた事に成りますね。
 

冬方鼎

 投稿者:べっちゃんメール  投稿日:2011年 5月29日(日)20時05分53秒
返信・引用
   長い金文です。冬(戈の下に冬)という軍人が東夷から国を守ったことを記念して作った鼎ですが、いろいろと興味深い内容です。前段に公式記録が、後段に冬の母親のことが記してあります。

冬方鼎、西周前期、陝西省扶風

(金文)惟九月既に望、乙丑、堂師に在り。王俎姜、内史友員を使わし、冬に玄衣、朱こ金(この2文字ワープロになし)を易ふ。冬拝稽首し揚き休みし王俎邑姜に対す。宝将尊鼎を用い作りて、夙に夜にそれ文祖乙公と文妣日にそれ用いて享孝せよ。それ子子孫孫永く宝とせよ。

 冬曰く「嗚呼王よ、冬辟刺を考甲公に唯念じ、肇吏として用ふ。乃ち子(なんじ)冬は虎臣を率いて淮戎を禦げ」と。冬曰く「嗚呼朕(われ)、考甲公を文ぶ(おぶ)。母文す、日庚戈休ひなれ、乃ち尚く安く永く宕ぎよ(すぎよ)、乃ち子冬の心、安く永く冬の身を襲げ、それまた天子に唯それ吏を享ける。子冬よ萬年天子に辟事しその身は睪することなかれ。」冬拝稽首し揚かき王命に対す。文母庚の宝尊鼎彝に用ひ作り、穆穆と夙に夜に尊び享孝し妥福なれ。それ子孫は永く宝せよと茲に刺す。

(和訳)王の九月望(十五夜)を過ぎた頃、乙丑の日、王は堂師にいらっしゃった。王の祖母邑姜は内史友員を使わし、冬に黒い衣と朱と金の糸で縁取られた装束(司令官の装束と考えられる)を与えた。冬は畏まって、王の祖母邑姜から褒美を受け取った。そこでこれを記念して宝器を作った。朝夕お供え物の煮炊きにこれを用いて、文祖乙公と文妣日をお祭りするのだ。子子孫孫これを家宝として大事にしなさい。

冬は言った「王様は私を信頼し考甲公に任命されて防衛軍の長官とされた。虎臣を率いて淮河の異民族から国を守れ」と。冬は言った、「私は考甲公に任命された、その時に母が私が無事であるように言祝いで言ってくれた『文祖乙公と文妣日よ冬を守ってください。冬が長生きしつつがなく過ごせ、冬の魂よ身体から逃げていかないように、今冬は天子様から重要な任務を仰せつかった、冬よいつまでも天子様のために一所懸命に働き、しかし命を失うことがあってはならない』」と。冬は見事に王命を果たした。そこで母のありがたい言葉を刻んだ鼎を作った。謹んで、朝に夕にこの鼎でお供え物を煮炊きし、福が増しますように。子孫はこれを長く家宝としなさい。

(解説)西周の前期第五代穆王の頃の鼎です。これとは別に冬が戎を防いで大勝利を収めたことを記念した簋がありますので、これは冬という軍人が淮河の戎(夷)から国土を守る司令官に任じられてその役目を果たしたことを記念して作った鼎です。

 この鼎の特長は、女性が関わっていることです。「俎」の字は「金出殷周金文集成」では不明となっていますが、「字統」を調べると「俎」となっていました。鼎が作られた時期は穆王の頃ではないかとされています。しかしその根拠が金文中に「穆穆」が出てくるから、というのでは弱いです。穆王に限定する必要はないでしょう。

 さて王の俎の姜とは誰でしょうか?私はこれを「王の祖母邑姜」と読むべきではないかと考えます。武王の妃で成王の母親の邑姜です。太公望呂尚、召公と協力して、幼い成王の摂政をしたと言われています。だとするとこれは成王の子の康王もしくは次の昭王の時代に作られた鼎でしょう。邑姜は長寿を保ち、永く実権を握っていたのではないでしょうか。

 この冬鼎の金文が解明できないのは、理想時代の西周前期に女が実権を握っていたはずがないという歴史学者の偏見が、西周の歴史解明を妨げている例だと思います。

 冬に与えられた防衛はかなり困難な任務だったらしく、本人も家族も悲壮な覚悟を固めていたらしいことが分かります。冬の母の祝言が胸を打ちます。特に「天子様のために一所懸命に働け、だけど死ぬな」という下りに、今も昔も変わらぬ母親の愛情を感じます。

 さらに想像をたくましくすると、冬の母というのは邑姜の知り合いだった可能性があります。母親の願いが細かく記録されているのは珍しいことです。この冬の母親というのは重要な人物だったはずです。邑姜の親族、あるいは元使用人、成王や康王の乳母といった邑姜と親しい人物で、そのため冬は邑姜から信頼されて国土防衛の任務を受けたのではないでしょうか。

 冬が功績を王から賞せられてもらった銅器(冬簋)は既にあります。この鼎は邑姜が特別に冬よりはむしろ母親に与えた鼎ではないかと考えられるのです。

 冬が率いた「虎臣」は軍事に関する記録に良く出てきますので、戦いに強い部族、あるいは何らかの兵種かもしれません。冬鼎が作られたのは此鼎の百年前、駒父簋の百五十年前の時期で、河南方面に勢力を伸ばした周族が、淮夷の強力な反抗に面したことが推測されます。

 西周の淮河方面の最前線は蔡でした。蔡ははじめ河南省上蔡県(鄭州の南方)に国を建て、その後河南省新蔡県(上蔡より数十キロメートル東)に移転しています。その間、西周と淮夷の間で激烈な攻防があったのでしょう。

 春秋時代の姫姓の邑の位置を調べると、済水と汝水(淮河の上流)に沿って並んでおり、周族がこれらの湿地帯に住む東夷を征服しながら領土を拡張していたことが推測されます。
 

黄子方座

 投稿者:べっちゃんメール  投稿日:2011年 5月29日(日)16時27分56秒
返信・引用 編集済
  黄子方座、春秋早期晩段、河南省光山宝相寺出土

(金文)黄子、黄夫人孟姫に器を作る。則ち永く□

(和訳)黄子が妻の孟姫のためにこの器を作った。永く(宝とせよ)。

(解説)河南省信陽市光山は河南省と安徽省と湖北省の境目に当たる地域です。春秋時代地図によるとそこは新蔡の南で黄という邑がありました。南西に千キロメートルほどいくと楚、東に千キロメートルいくと呉ですが、その周囲は何もなく春秋時代には西周の最前線でした。

 ということはおそらく黄は西周時代には淮夷であり、西周の攻撃を受けて降伏し、同化したのではないかと考えられます。駒父盨に登場する「菫夷(きんい)」かもしれません。音が似ています("き"は訓読みのようですが、元々は大陸の読みだったと聞いたことがあります)。これがおそらく九夷の一つ黄夷なのでしょう。

 山東省にも黄県という地名があって古い銅器が出土していますが、こちらの方は、時代が西周のはじめで啓が王に従って遠征をしたという内容ですので、これは微子啓の銅器と考えられますので、黄夷とは別でしょう。
 

駒父盨

 投稿者:べっちゃんメール  投稿日:2011年 5月29日(日)12時00分48秒
返信・引用 編集済
  駒父盨(蓋)、西周末、陝西省武功出土

(金文)唯王十又八年正月、南仲邦父令駒父、即ち南の諸侯と師す。高父は南し、淮夷はそれ取りそれ服せられる。菫夷の俗、墜る。敢へて王命を畏れて敬せずんばあらず。逆に我によりてそれ献じそれ服せらる。我即ち淮に至り、具に王命に逆らふ小大の邦を亡ぼし敢へて□ず。四月、還へりて蔡に至る。旅盨を作り、駒父それ萬年永く用ひ休ひなれ。

(和訳)王の十八年一月、南仲邦父令の駒父は南の諸侯を率いて遠征した。有能なる駒父は南に向かい、淮河の夷はやっつけられた。菫夷の一族は降伏した。王の威光を畏れて敬わないということはなくなった。逆に私によって捕虜として都に抑留され、従う状態となった。私は淮河まで到達し、王の威光に逆らう大小の国々を亡ぼし、決して(見逃すことは)なかった。四月、遠征より帰還して蔡に至った。遠征の成功を記念し旅盨を作った。駒父よこの器を大事にせよ、そしておぬしに幸運が訪れるように。

(解説)文章の内容からいって、遠征を成功させた駒父に対して王が下賜した器と考えられます。南仲邦父令はおそらく南の諸侯を統率する司令官のような役職でしょう。西周末は考古学上の時代分類で、共和、宣王、幽王時代です。厲王を含める説もあります。この時期西周は北方の遊牧民「狄(てき)」に圧迫されていました。その後幽王の時代に西周の都成周は陥落し、周は東の洛陽へ遷都します。それによって歴史の舞台は漢中から黄河中流へ移ります。

 狄によって圧迫されてなのか、あるいは西周が東夷の攻略に明け暮れている間に狄によって本拠地を突かれたのかは不明です。しかし、西周の中期から後期にかけて漢中の周族は河北・河南・山東に居住する東夷を攻めて、東に居住域を拡大していたようです。史密簋では攻撃範囲は(当時の)黄河や済水でしたが、駒父簋では攻撃範囲は淮河に達しています。

 正月に出発し、四月には帰っていますのでそれほど遠くへは遠征していないはずです。帰還したのが蔡(河南省南部)ですので、ここでいう淮夷は安徽省あたりに居住していたのだと推定されます。

 西周はその創建において山東省の付け根に斉と魯を配置することで東夷を南北に分断し、遼東に燕を配置し北側の夷を斉と燕で挟み撃ちにし、斉・魯・宋・陳・蔡を使って南側の夷を沿岸に向けて圧迫していったのではないでしょうか。

 斉と燕によって挟み撃ちにされた夷は朝鮮半島の方向へ逃げ、南の諸侯によって圧迫された夷はあるいは南に逃げて呉越を建国し、あるいは日本列島へ逃れたのではないかと考えられます。

 また魯の周辺には帰化したと考えられる夷の兆候も見られますので、中原の風習に染まって同化していった夷も少なくなかったのでしょう。
 

銅剣・銅戈・銅鐘

 投稿者:べっちゃんメール  投稿日:2011年 5月28日(土)22時03分26秒
返信・引用 編集済
  「近出殷周金文集成」を読んだだけなのではっきりとは決められないのですが
銅剣は呉越(長江下流)に多く、
銅戈は宋(河南省)に多い傾向があるらしいです。
銅鐘(銅鐸)は南方に多い傾向があるらしいです。

これはそれぞれの地方からの移民が日本にやってきたことを表しているんじゃないでしょうかね。

他にも商が山東省の付け根の寿光あたりにいた「己(杞)」に
大量に銅器を与えていたり、
これなんかも日本に渡って紀氏になったんじゃないでしょうか。

今日コピーしてきた資料だけでもかなり日本の古代について推理が働きそうです。
日本の古代を探るためには同時代の魏志倭人伝だけではなく、
商・西周・春秋にまでさかのぼって日本と支那で史料を対比する必要があると
強く感じました。

だって帰化人の波はまさに西周から春秋にかけて大陸から
日本に押し寄せてきたわけですので当然その時期の史料から日本の古代が
読み解ける筈なんですよ。
 

 投稿者:べっちゃんメール  投稿日:2011年 5月28日(土)20時05分25秒
返信・引用
  なお、古代支那には「黄」という名の邑があったらしく、
黄で作られた銅器というのも出土しています。(コピーしてきました)

ですので黄夷というのは黄という土地に住む夷のことではないかと考えられます。
となると、それ以外の赤や玄も素直にそういう名前の夷がいたと
考えるべきかもしれません。
 

金文資料を集めてきました

 投稿者:べっちゃんメール  投稿日:2011年 5月28日(土)19時49分21秒
返信・引用 編集済
   夷と倭の金文資料について、私も興味を持ちましたので、調べてみました。東京都立図書館に問い合わせたところ、二松学舎大学が出している「近出殷周金文集成」の第一巻から第五巻(1960年代~95年)が蔵書にあるとのことでしたので、立川まで行って必要な部分をコピーしてきました。

 夷の使用例は4つ、倭はありませんでした。他に西周初期の遼寧省出土の銅器、淮戎の金文、楚の金文、呉越の銅剣、商の銅戈などなど色々と面白い資料が手に入りました。夷を直接扱った資料は4つだけですが、周辺国の資料も手に入りましたので、色々と面白いことが分かりそうです。よろしければhnさんにもコピーして送ります。私の方へメールください。

 今日コピーできた夷の金文資料を一つ紹介します。資料には銅器の写真と拓本と楷書に書き起こした金文が載っています。書き下し文と現代語訳は私が考えて書きました。

 史密簋、西周中晩期(恭王~厲王)、陝西省出土

□十又一月、王師俗史密に命じて曰く、東征して南夷を(攻)めよ。廬虎、杞夷、舟夷、雚、墜ずして会す。広く東国を伐つ。斉師族徒馭人乃ち図寛亜を執りて、師俗斉師馭人□□を率いて、長必を伐つ。史密玄族人釐伯棘師を司わし周長必を伐ち、百人を獲らふ。揚くして休みし天子、対し、もって朕、文を考へ乙伯が尊箇こを作る。子々孫々それ永く宝として用ひよ。

 十一月王は司令官の史密に命じた。東に攻め込み南夷を攻めよ。廬虎、杞夷、舟夷、雚、は降伏せずに集合して対決の姿勢を示した。そのため広く東国を攻めた。斉の軍隊は長必を攻めた。史密は玄族人釐伯棘師を応援に送って周も長必を攻めて、百人の捕虜を得た。天子はこれを賞し、私はそれを記念して顕彰文を考え、乙伯が(それを記した)この器を作った。我が子孫はこれを家宝として大事にしなさい。

 杞は河南省開封市の近くで、古代支那史で言えば宋の西、斉の南にあたります。ですのでこれは周と斉の連合軍が間にいた夷を攻めた記事です。南夷と呼んでいることから、夷が西周の中期に現在の河南省と河北省に分布していたと推測されます。

 周と諸侯の斉の間に夷が広く分布していたのは不思議な気がしますが、当時の河南省と河北省は川が縦横に走り、湿地帯でした。中原の周族や羌族は元遊牧民でしたので、湿地帯は苦手だったのでしょう。

 舟夷と金文にもありますので、夷は中原の部族が苦手とした湿地帯に広く居住していたのだと考えられます。
 

Re: 決め打ちしすぎのような気が・・・

 投稿者:hn2602  投稿日:2011年 5月22日(日)15時16分37秒
返信・引用
  べっちゃんさんへのお返事です。

> 「倭」「夷」について、市販の資料で調べられる限りのことを
> 調べたというのはよく分かったのですが。

 何しろ白川静博士の『甲骨文の世界』や『金文の世界』は、昭和48値ごろ購入した本です。ですので

> 資料が少なすぎるとどうしても自家中毒のような状態に
> 陥りがちなので、もうちょっと広く古代支那史の
> 史料に当たった方が良いのではないかと思いますよ。

 それは私も十分承知しているのですが、一般向けの本にはその後(探してはいるのですが)、お目にかかれないのです。伊藤道雄氏とか平勢隆郎氏とかの中国史関係の本を読んだりはしているのですが、どうもピタッとこないので、白川博士の考え(『漢字の話』とか『呪の思想』とかも読んでいますが)を未だに基本にしているわけです。
 それに、最近の分子人類学の進歩が著しく、これと民俗学・言語学などを組み合わせると、面白い知見が得られるのではないか?と考えています。殷墟あたりから出土した殷王族の人骨のDNA解析などが、可能であれば面白いのですが。一応中国では、かなり古人骨からのY--DNAやmtDNAの報告があり、黄河や長江流域の古人骨のDNA報告から、それを担った民族の系統も不十分ながら、推定は可能ですので。今のところ、旧来の通説をひっくり返すようなものは、出てませんが。

> 非常にデータが少なすぎるため、
> hn2602さんの説に対して賛成とも反対とも言えないんです。
> 面白いとは思いますが・・・

 おそらく画期的な金石文が出土しない限り、誰にも決論は出せない状態が続くと思います。
基本的には考古学頼りで、時代の判明する古人骨からのY-DNAで、倭人(及び韓人)のY-O2bが認められた地域から、倭人および日本語のルートをたどるほうが、決定的であり、文献史料の欠落を補う唯一の方法だろうと考えています。

> 史料って、ある程度集まるとそれが質の変化を生み出すもんなんですよ。
>
> たぶん学会に入れば大学や研究所の図書館の閲覧ができるようになる
> はずです。学会はお金さえ払えば誰でも会員になれます。
> もしかしたら何らかのチェックがあるかもしれませんが、
> hn2602さんは京大出身ですのでそれは問題ないはずです。
>
> それで京都大学や立命館の図書館に行って色々と
> 調べるのが一番いいんじゃないでしょうか。

 それは判っているのですが、時間的余裕と体力的余裕が決定的に不足しています。

金文についてはまだ商業ベースの資料はほとんどないので、
> 研究機関の扉を叩くか、中国の出版物を当たるしかないんじゃないですかね。

 う~ん、残念です。

> 白川先生は間違いなく金文学の大家ですが、
> 市販されている先生の著作は既にかなり過去の研究成果を
> まとめたものしかありません。
> それ以降にたくさん青銅器は出土しているので
> 金文の量に関しては飛躍的に上がっているんですよね。
> だから最新の資料を当たればもっと色々と分かるはずです。
>
> それと「倭」「夷」が出てきそうな本と言えば
> 「書経(尚書)」「国語」「呂氏春秋」「淮南子」あたりですかね。

 ロトさんのお知り合いの巫俊さんあたりもお詳しそうなので、何か情報があればと思っているのですが…。『淮南子』は確か『山海経』などと一緒に収載されているのを買った様に覚えていますが、まだ、きちんと読んだ覚えがありません。こんど読み返したいと思います。
 

新銘菓が誕生しました(^^ゞ

 投稿者:勇者ロト  投稿日:2011年 5月21日(土)15時36分37秒
返信・引用
  その名は「光姫」。

「てるひめ」と読みます(^^ゞ

詳細は下記をどうぞ(^^ゞ

http://www.cam.hi-ho.ne.jp/sakura-komichi/teruhime.shtml

http://www.cam.hi-ho.ne.jp/sakura-komichi/kodaishi/index.shtml

 

決め打ちしすぎのような気が・・・

 投稿者:べっちゃんメール  投稿日:2011年 5月18日(水)21時06分13秒
返信・引用 編集済
  「倭」「夷」について、市販の資料で調べられる限りのことを
調べたというのはよく分かったのですが。
資料が少なすぎるとどうしても自家中毒のような状態に
陥りがちなので、もうちょっと広く古代支那史の
史料に当たった方が良いのではないかと思いますよ。

非常にデータが少なすぎるため、
hn2602さんの説に対して賛成とも反対とも言えないんです。
面白いとは思いますが・・・

史料って、ある程度集まるとそれが質の変化を生み出すもんなんですよ。

たぶん学会に入れば大学や研究所の図書館の閲覧ができるようになる
はずです。学会はお金さえ払えば誰でも会員になれます。
もしかしたら何らかのチェックがあるかもしれませんが、
hn2602さんは京大出身ですのでそれは問題ないはずです。

それで京都大学や立命館の図書館に行って色々と
調べるのが一番いいんじゃないでしょうか。

金文についてはまだ商業ベースの資料はほとんどないので、
研究機関の扉を叩くか、中国の出版物を当たるしかないんじゃないですかね。

白川先生は間違いなく金文学の大家ですが、
市販されている先生の著作は既にかなり過去の研究成果を
まとめたものしかありません。
それ以降にたくさん青銅器は出土しているので
金文の量に関しては飛躍的に上がっているんですよね。
だから最新の資料を当たればもっと色々と分かるはずです。

それと「倭」「夷」が出てきそうな本と言えば
「書経(尚書)」「国語」「呂氏春秋」「淮南子」あたりですかね。
 

Re: 金文

 投稿者:hn2602  投稿日:2011年 5月18日(水)13時09分10秒
返信・引用
  > No.4136[元記事へ]

べっちゃんさんへのお返事です。

> 金文に「夷・倭」そのものが出てくることは少ないのですが、
> 「夷・倭」を討伐したとか、「夷・倭」の家来を王から与えられた
> という記事はありますので、これらを丹念に追っていけば
> なにか分かるかもしれません。
>
> 金文の研究は近年急速に発展しています。

 私が金文について持っているのは、白川静氏の『金文の世界』(平凡社東洋文庫、書評を見て前著の『甲骨文の世界』と同時に買いました。初版です)のみですが、考古学関係の本などで、多少は見ています。

> 神保町には中国語の本を扱う書店がいくつかあります。

 関西在住の人間にとっては、ちょっと無理です。何か、最近の好著でもあれば、ご紹介お願いします。
 

Re: 九夷

 投稿者:hn2602  投稿日:2011年 5月18日(水)13時00分29秒
返信・引用
  べっちゃんさんへのお返事です。

> 論語にも出てくる「九夷」ですが、
>
> [田犬]夷、于夷、方夷、黄夷、白夷、赤夷、玄夷、風夷、陽夷のうち、
>
> 田、方、白は商や西周における爵位です。
> 于も爵位の可能性があります

 [田犬」は「畎」の文字が、文字化けする可能性が高いと考え、扁と旁を別けて書いたのですが、本来一字です。爵位としての「公、侯、伯、子、男、田」とは無関係だと思います。「方」は「邦」でこれも直接爵位とは言え無いように思います。「方伯」と言う言葉は勿論ありますが。「白」は「伯」に通じますから、爵位と解しても良いのかも知れません。

> 白川静の「字統」によりますと、
> 「黄」は弓矢もしくは勾玉のことです(黄の字には二系統有るらしい)
> 「赤」は火によって人を清めている姿です
> 「玄」糸束です。(玄が後に黒色を意味するようになったことから、髪の毛を三つ編みに結うことだと思います)
> 「風」は大きな鳥です
> 「陽」は神が上り下りする梯子の前に玉を奉る行為です
>
> 黄、赤、玄、風、陽は信仰や風習によって夷を分類しているのだと思います。

 なるほど、白川氏の『字通』『字訓』は私もも持っており、しばしば参照していますが、そのような解釈もあり得ますね。ただ、「倭人」の「倭」は「シ于」(サンズイ扁に于)と通じ、この字は「汚」の正字とされますので(『字通』)、「水溜まりに住む住民」とか「水辺に住む汚い連中」とかいう程度の蔑称だったのではないかと思います。勿論、彼らの一人称複数形除外形「われ(ら)」あたりの音写でもあったのでしょう。
 

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