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勇者ロトさんへ

 投稿者:皮長 剥助  投稿日:2010年 3月12日(金)18時55分49秒
返信・引用
  今のこの掲示板の番号は『2359』ですが、日に日に増えてます。
トータス包が気になって頻繁に見ているのでしょう。
彼ももっと素直になればいいのですが、なかなか素直になれないのも子供の証拠なのです。
ってトータス包のネタになってしまいましたが、勇者ロトさんはプロレスに興味があるんですよね?
私も↓に書いた様に昔のプロレスは大好きでした。
今は衰退の一途を辿っているトータス包、いやっプロレスには興味ありませぬ。
勇者ロトさんはレスラーでは誰が好きだったのですか?
 

勇者ロトさんへ

 投稿者:皮長 剥助  投稿日:2010年 3月12日(金)18時50分15秒
返信・引用
  初めまして、私はトータス包の飼い主とも言うべき皮長  剥助と申します。
トータス包は私の息子、ペット、マスコットみたいなものです。
彼は他の掲示板で私をボロクソ書いて、数日前にここにも書いてきました。
が……すぐに削除されました(大爆笑)。
彼は『もう二度とここには書き込まないと決めてますたが…』
と書いてきたので余程の事がない限り次はありません。
まあ彼はこの掲示板の皆様にもご迷惑をお掛けしたみたいで、
使えないダメ息子で本当に申し訳ありませぬ。
 

茨城空港

 投稿者:勇者ロト  投稿日:2010年 3月12日(金)07時10分7秒
返信・引用
  開港おめでとうございます。

これで神戸まで一っとびですね(^^ゞ
 

きんたろうさんへ返信

 投稿者:皮長 剥助  投稿日:2010年 3月 8日(月)00時12分44秒
返信・引用
  返信ありがとうございます。
私も最近のプロレスは本当につまらないから見ませんね。
きんたろうさんはいつ頃の時代ならわかりますか?
私は昭和から平成主に80年代〜90年代、そして2000年代前半ですね。
でも私の場合はUWF系はあまり興味がなかったのです。
UWFはプロレスの醍醐味を一切排除したので興味が沸きませんでした。
だから純粋なプロレス、新日本と全日本の二つが好きでした。
主に日本人VS外人という図式がわかりやすくて良かったです。
長州革命以後は日本人対決主流の時代になってしまいましたが。
そして外人が脇に追いやられたのは残念であり、勿体ないと。
それが後々にはプロレスの衰退の原因の一つだと確信しております。
 

プロレスについては

 投稿者:きんたろう  投稿日:2010年 3月 7日(日)22時58分23秒
返信・引用
  私も昔は好きでした。
というわけで、最近のプロレスは全く分かりません、(^^;)

見るスポーツそのもの全般に対して、以前よりも興味が薄れているというか。。

ある程度の興味はあるのですが、物理的にテレビ等に向かっている時間をあまり取れないからなんですが。

そういえば、ふと思ったのですが、ジャガー横田とゴルフの藍ちゃんは目の辺りが似ているかも?
 

皮長 剥助さんへ

 投稿者:べっちゃん  投稿日:2010年 3月 6日(土)20時43分23秒
返信・引用
   インターネットでは個人の人格について触れるのは基本的に禁止ですよ。私自身への自戒も込めてご注意しておきます。

 プロレスについては勇者ロトさんが非常に詳しいです。

http://seisai-kan.cocolog-nifty.com/blog/

 

きんたろうさんへ返信

 投稿者:皮長 剥助  投稿日:2010年 3月 6日(土)18時35分22秒
返信・引用
  3768の『今でも好きですね』というのは『今でも昔のプロレスは好きですね』
こういう意味です。わかり辛い文章になってしまったので補足致します。
 

きんたろうさんへ返信

 投稿者:皮長 剥助  投稿日:2010年 3月 6日(土)18時28分58秒
返信・引用
  私は特に昭和のプロレスが好きです。今でも好きですね。
平成初期(90年代)もそれなりにおもろかったとは思います。
でも今は出口のないトンネル状態で明るい未来は見えませぬ。
このままプロレスはどんどん朽ち果てて墜ちてゆくしかないです。
プロレス人気が復興される事は現状では有り得ませぬ。
過去を辿るとプロレスが衰退した理由は幾つもあります。
それら悪条件が短期間で幾つも重なったのが原因だと思ってます。
もしもきんたろうさんがプロレスに興味があればお話をしたいと思います。
 

皮長 剥助さんへ

 投稿者:きんたろう  投稿日:2010年 3月 6日(土)14時46分36秒
返信・引用
  いくつか削除してあります。

何事につけ揉め事というのは発生しますが、そんなことにはあまりストレスを持たないようにした方が。。。と思います。(^^;)


今度は楽しい話題について書き込みをお願いします。
 

トータス包についての返信

 投稿者:皮長 剥助  投稿日:2010年 3月 3日(水)23時11分27秒
返信・引用
  べっちゃんさん、色々とありがとうございます。
確かに彼の事をハッキリとは書けない部分もあります。
ただ彼がべっちゃんさんを徹底してボロクソ言っていたのではありませぬ。
彼が例としてべっちゃんの名前を出して経緯を聞いたまででした。
それで私の姿勢も『そのべっちゃんと同じで話にならない』という具合で。
まあ私はきんたろうさんの事も知らないのでこうやって場を借りて書くのも迷惑になりますね。
そうします。まあトータス包に関しては未熟な子供だと(決して悲観的ではなく)思って上げる一番ですね。
 

ブログで揉めたのは

 投稿者:べっちゃん  投稿日:2010年 3月 3日(水)23時00分20秒
返信・引用
   私のブログの2007年の夏頃の記事を読んでいただければ分かると思います。

 あれは政治に対する見解の相違ですから、仕方がないです。どっちが悪いと言うこともないと思います。けれども、私はブログの主宰者としての権利を行使してトータス砲さんを出入りに禁止したまでです。HPとかブログは趣味でやっているわけですので、あまりに考え方の遠い人を無理に抱え込む義務はないというのが私の考え方です。

 ところで、皮長 剥助さんの投稿には非常に微妙なことが多くかかれていて、何も知らない人が読むとビックリして、この掲示板から遠ざかってしまう危険性があると思います。皮長 剥助さんが彼のことを憂慮していると言うことはよくわかりました。けれどもこれ以上このことをここで話すのはきんたろうさんの迷惑になると思います。そこはわかってください。

 投稿は消去されるか、方法がわからなければきんたろうさんにお願いして消去してもらった方が良いと思います。

 どうしても私にお話がある場合は、メールを送って下さい。

http://seisai-kan.cocolog-nifty.com/blog/

 

トータス包についての返信

 投稿者:皮長 剥助  投稿日:2010年 3月 3日(水)22時55分18秒
返信・引用
  まあトータス包みたいな物体は扱いが難しいのが現状でもあります。
べっちゃんさんもトータス包には相当苦労したのもわかります。
それ以外でもウイリアムさんとも揉めたと名前を出して言ってきました。
その人にはトータス包の掲示板荒らされた、との事でしたが。
べっちゃんさん、この掲示板にはトータス包の掲示板も紹介されてますよ。
私はトータス包のHPの紹介でこの掲示板の存在を知りました。
彼は本当に困ったダメ息子です。
べっちゃんさんも自分の掲示板でトータス包をアク禁する程に追い込まれたんですね。
 

トータス包についての返信

 投稿者:皮長 剥助  投稿日:2010年 3月 3日(水)22時47分52秒
返信・引用
  べっちゃんさん、返信すいません。
私は確か2、3年程前にあなたとトータス包が掲示板の内容を巡って揉めたと本人から聞きました。
と言うか私もその頃、トータス包と揉めており、彼があなたの名前を出して経緯を言ってきました。
それで私の事も『べっちゃんと同じで話にならない』と言ってきたのです。
もちろんトータス包とべっちゃんさんがどの様に揉めたのかは知る術もありませぬ。
しかしトータス包が全く知らないべっちゃんさんの名前を出してきたのも驚きました。
 

皮長 剥助さんへ

 投稿者:べっちゃん  投稿日:2010年 3月 3日(水)22時13分10秒
返信・引用
   書き込み読みました。私にはあなたが言っていることが本当のことなのか作り話なのか確認するすべがありません。彼が何か問題を起こしつつあり、考え直すことを期待してのメッセージなのかもしれませんが、私にはなんとも言えません。

 非常にインパクトのある内容ですので、書き込みを消去された方が良いのではないかと私は思います。この掲示板の一番下にある「自分の投稿を編集」のボタンを押せば、書き込みを修正することができます。

 私を心配してくださったことについては感謝します。ありがとうございます。皮長 剥助さんもお気をつけて。

http://seisai-kan.cocolog-nifty.com/blog/

 

皮長 剥助さんへ

 投稿者:べっちゃん  投稿日:2010年 3月 2日(火)07時32分33秒
返信・引用
  初めまして

 残念ながらトータス砲さんとは仲直りはできていません。あれ以来彼との間に交信もありません。

 私のブログでのことは、私とトータス砲さんとの間で政治に対する見識の差異があまりに大きくなってしまったのが原因で、基本的にトータス砲さんには罪はないと思います。私の精神安定とブログの状況を落ち着かせるためにトータス砲さんは出入り禁止にいたしました。

 あの頃のトータス砲さんは多少精神が不安定になっていたのではないでしょうか?その前のトータス砲さんに戻っているのでしたら、私としては仲直りするのは吝かではありません。

 この掲示板についてはきんたろうさんにお尋ね下さい。

http://seisai-kan.cocolog-nifty.com/blog/

 

第四話組み替え

 投稿者:べっちゃん  投稿日:2010年 3月 2日(火)07時24分46秒
返信・引用
  勇者ロトさんへ、

よく考えてみると、ウズメがやっている役をタカヒコにしてみても話が成り立つことに気がつきました。タカヒコは天之日矛と直接顔を合わせていませんし、テルヒメとナルメはタカヒコが助けに来た方が状況を察して大胆な動きに移りやすいはずです。それに対してウズメは貿易で天之日矛と顔を合わせている可能性がありますので、むしろあの役は不都合です。

タカヒコも女装させるかどうかは考慮中です(^^;>

http://seisai-kan.cocolog-nifty.com/blog/

 

Re: あれは

 投稿者:皮長 剥助  投稿日:2010年 3月 2日(火)01時58分45秒
返信・引用
  > No.3744[元記事へ]

べっちゃんさんへのお返事です。

トータス包氏とは仲直りできましたか?
彼はあなたをボロクソ言ってました。
しかしトータス包氏は私に取っては息子みたいな存在です。
彼は逃げ癖が多くて会社でも本当にヤバイ事をやってました。
トータス包氏は子供で幼い物体です。
 

Re: 今年も

 投稿者:きんたろう  投稿日:2010年 2月28日(日)18時36分9秒
返信・引用
  > No.3745[元記事へ]

銘菓桜小径

さすがに、勇者ロトさんのお店を代表する和菓子です。
私も大好きな一品です。

あの品の良さと美味しさは絶品です。

もうちょっとしたら、私も注文するつもりです。(^ ^)
 

Re: 結果報告

 投稿者:きんたろう  投稿日:2010年 2月28日(日)18時29分57秒
返信・引用 編集済
  > No.3741[元記事へ]

COMITIA91への参加出展、お疲れ様でした。

主催者サイドでイベントに参加する場合は、何だかんだ言って大変ですよね、(^^;)

この実体験は、安部さんの血となり肉となって、安部さん自身をスケールアップするものと思っています。

消費者の財布の紐が固いのは当たり前で、正攻法でそれを突破しようというのですから、なかなか売れないのは当たり前です。

それでも買って貰ったというのですから、とても嬉しいというのはとてもよく分かりました。
 

今年も

 投稿者:勇者ロト  投稿日:2010年 2月26日(金)12時14分50秒
返信・引用
  宣伝です。

今年も当店の銘菓桜小径の販売が東京、神奈川の東急百貨店ではじまりました(^^ゞ

詳細は下記アドレスをどうぞ(^^ゞ

http://www.cam.hi-ho.ne.jp/sakura-komichi/tokyu/index.shtml

 

あれは

 投稿者:べっちゃん  投稿日:2010年 2月21日(日)20時26分13秒
返信・引用
  あのキャラクターのデザインを考えたときから温めていた展開です(^^;
だから女の子みたいな顔にしたのです(爆)

まあ日本武尊も女装しているくらいだし(笑)
素戔嗚尊も生贄の身代わりになるときに女装しませんでしたっけ?

あれくらいなら少年マンガでも許される範囲かなと。

あの女装も萌えに当たるんですかね、世間的な評価だと(^^;

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

一番マンガの悪役っぽい素質を持っているツヌガラノアラシトが倒されるシーンを大々的にしたかったというのもあります。

http://seisai-kan.cocolog-nifty.com/blog/

 

確認しました

 投稿者:勇者ロト  投稿日:2010年 2月21日(日)11時43分13秒
返信・引用
  女装?は萌え狙いなのでしょうか(^^ゞ  

勇者ロトさん

 投稿者:べっちゃん  投稿日:2010年 2月18日(木)00時33分33秒
返信・引用
  それと、第四話の脚本をメールでお送りしました。ご確認下さい。少年マンガらしい展開にはなっているかなあと。でも、あれを絵で表現するのはかなり大変そうですが、頑張ります。

http://seisai-kan.cocolog-nifty.com/blog/

 

結果報告

 投稿者:べっちゃん  投稿日:2010年 2月18日(木)00時32分12秒
返信・引用 編集済
   COMITIA91にご来場ありがとうございました。今回は結構な人数の方が桜小径のブースを覗いて本を手にとって下さいました。何人かはホームページかブログを見て私を見物に来た人かもしれませんが、それでもお客様には変わりありません!本を1ページ、1ページじっくり読んでくださった方も数人いました。ありがとうございます。とても嬉しかったです。

 売り上げですが、一冊売れました。

 少し題名が固いかな・・・と言う感じはしています。第二部は「タカヒコの冒険」なんて感じの名前に変えて出した方がいいかもしれません。それとやはり高いようなので、コピー機で印刷して手で製本して普及版をつくって20ページ100円くらいで売ろうかな、とか考えたりもしています。

 定価で買ってくださった方に申し訳ないので、全部は普及版にはしないけれど、まず読んでもらわないと始まりませんからね。100円でまず試してもらえればそのうち何人かはちゃんとした本を買ってくれるかもしれません。

 私の画力があればまあ800円でも買ってもらえるのでしょうが、まだまだ実力が足りなくてすみません。まだ、古代史にそんなに興味がない人に、その場で見てパッと800円で買ってもらえるレベルには達していない見たいなんですよね・・・ていうかそこまでいったらもうセミプロか(^^;A

http://seisai-kan.cocolog-nifty.com/blog/

 

なんと!安部さん

 投稿者:勇者ロト  投稿日:2010年 2月17日(水)17時52分6秒
返信・引用
  ここ数週間バタバタしていて、ご無沙汰していたらなんと終わってしまったのですか! というか告知も見逃していました。、もうしわけありません。 結果はどうだったんでしょうか?  

Re: COMITIA91に出店します

 投稿者:きんたろう  投稿日:2010年 2月13日(土)22時51分30秒
返信・引用 編集済
  > No.3738[元記事へ]

コミケットは明日ですか!!
それじゃ、忙しくて大変ですね。

こちらは、木曜日の午後から雪が降りました。
というか、ほとんど降り続いている感じです。

金曜日の朝は一面が白一色、という滅多にない景色になりましたよ。
さすがに平日の雪には焦りました、(^^;)


相変わらずかなり寒い日が続いています。
こんな日は体の中から暖めるのが一番ですよね。

というわけで、木曜日、金曜日はこの前手に入れた「新春絞り」を飲んでいました。
なので、今日はアルコールを抜きました。(^^;


明日も寒いと思いますので、「懐炉」は必需品ですよ。

イベントの成功を応援しています。

近くの人は、ぜひ東京ビッグサイト東4ホールへ
 

COMITIA91に出店します

 投稿者:べっちゃん  投稿日:2010年 2月13日(土)10時53分27秒
返信・引用
  2010年2月14日(日)
11:00〜15:30

東京ビッグサイト東4ホール し13b

です。「出雲國譲りの真相」の第1〜3巻を発売します。
皆様のお出でをお待ちしています。

それにしても冷えますね。温暖化はどこへ行ったのやら。

最近また囲碁をやるようになりました。4級から3級に昇級しました。接近戦が弱いのと、終盤で地道に打てない欠点があるみたいです。まあ要は弱いと言うことですが(笑)まずは初段目指して頑張ります。

囲碁って二千年前から全くスタイルが変わっていないゲームなんですよね。盤目の数には多少変化もあったらしいですが。源氏物語にも出てきます。布石には進歩がありましたが、接近戦に関しては、千年前の人と今の人がやっても差はないんじゃないかと思います。囲碁の問題集の中には千年前の宋の時代からずっと使用されているものまであります。

あと囲碁は男女であまり差が出ないゲームです。最近は女流棋士もタイトル戦で勝ち進むようになってきました。江戸時代から女流も男性に交じって戦っています。

http://seisai-kan.cocolog-nifty.com/blog/

 

藤原氏

 投稿者:きんたろう  投稿日:2010年 2月 8日(月)00時32分9秒
返信・引用
  の場合は、新設の「氏」だったので、本来の氏と言うよりは、「家」に近い感じがします。
それが孫の代に4家に別れ、それらが更に分裂していくことによって、本来の氏になっていった。。のではないでしょうか。

で、藤原氏の姓である「朝臣」は八色姓では第2位にランキングしていますが、これが鎌足−不比等の血統に限るようになった理由とされていますよね。


ところで、八色姓が制定される前から「姓」はありますし、氏と名字などの区別が難しいと感じています。(^^ゞ
 

強力な外戚がいない場合

 投稿者:べっちゃん  投稿日:2010年 2月 3日(水)21時54分18秒
返信・引用 編集済
   明治以降と違いまして、平安時代までは有力な皇位継承権保有者が複数いるのが常態でしたので、強力な外戚がなく、上皇も生き残っていないような場合には、分別のある成人が皇位につき、親政と言うことになったのだと思います。

 光仁天皇、光孝天皇、後三条院、後嵯峨院のパターンです。

 父親も祖父もいない、強力な外戚もいないでは保護者が全くいないことになって、朝廷の収拾がつかなくなります。

 これに近いのが、冷泉院、円融院、花山院の頃で一時的に南北朝時代みたいに両統迭立状態になっています。称徳天皇の時代もそれに近いです。称徳天皇は成人ですが女性でしたのでやはり政治が不安定になりました。

 もう一つ似たような状況がありまして・・・即位直後の明治天皇なんですよね。実際この時には薩長が勝手に密勅を出したりとかなり滅茶苦茶なことが行われています。

http://seisai-kan.cocolog-nifty.com/blog/

 

だいたいそのような理解でいいかと

 投稿者:べっちゃん  投稿日:2010年 2月 3日(水)21時30分4秒
返信・引用
  天皇が成人の場合は天皇親政、幼少で父親か祖父が生きていれば院政になります。

一条天皇も成人してからは道長に対してそれなりに主導権を発揮しています。摂関政治というのは多分に日本的な空気による力関係で主導する側が決まるような部分がありまして、天皇が本気になって主導権を発揮し始めたら、摂関家でもそれは止められなかったんです。

承久の乱で主要な皇族がほとんど流罪になったという状況が生じたことがあるのですが、その時は後鳥羽上皇の兄の守貞親王(この時期既に出家していた)の息子が即位し(後堀河院)、天皇になったことがない守貞親王が院政を開いています。

白河院以降、生前の譲位が多くなるのですが、これは壮年の天皇が薨去して、その後に残された幼帝を摂関がサポートするという摂関政治のパターンを回避するための皇室の防衛策だったのではないかと私は考えています。

それと、皇位継承権を持つ皇族を多く確保するためです。自分の息子や孫たちを順繰りに即位させておいて、病気などで皇位継承者がいなくなることを防ぐと同時に、特定の貴族に権力が集中することを防ぐ(外戚を複数作ってしまって、それらを牽制させることで院の権力を維持する)、わけです。

この摂関政治回避作戦が裏目に出たのが持明院統と大覚寺統の迭立なんですよね。

http://seisai-kan.cocolog-nifty.com/blog/

 

確かに

 投稿者:きんたろう  投稿日:2010年 2月 2日(火)23時03分16秒
返信・引用 編集済
  藤原氏の外戚として縁故関係はすごいですが、藤原氏が外戚になれなくて政治力を発揮出来なかったときは、天皇親政という方式が成り立つのでしょうか?

今になって疑問が湧いてきました、(^^;)
 

忠平の時代から道長の登場まで

 投稿者:べっちゃん  投稿日:2010年 2月 1日(月)20時14分16秒
返信・引用 編集済
   良房、基経と政治の実権を握った藤原氏でしたが、折角擁立した陽成帝には精神的疾患があり、完全ダークホースだった光孝天皇に皇位が移って縁戚計画は振り出しに戻ってしまいます。

 宇多天皇の母親は皇族(桓武天皇孫)の班子女王であり、宇多天皇が若年の間は皇族の重鎮として重きをなしました。強力な指導力を持ち、人望もあった基経が五十代半ばで死去してしまったことも藤原氏には不利に働きました。その後にはまだ二十代そこそこの時平、忠平兄弟が残されました。

 藤原氏よりも年長の宇多上皇、成年の醍醐天皇の下で朝廷政治の理想と謳われた延喜の治が実現します。時平は早死にしたので、藤原氏の当主は若い忠平になりました。忠平の母親は皇女ですので、忠平は準皇族のようなものにあたり、それによって異例の三十代での左大臣となったものと考えられます。結局忠平は六十九歳で死ぬまで四十年間官位最上位であり続けます(おそらく日本史の最長記録)。醍醐天皇が道真の怨霊の心労によってか四十代で薨去してしまったため、若い朱雀天皇に位が遷り、宇多上皇の死後は長い忠平の摂政時代が続きます。

 穏和な人格のため、目立っていませんが、忠平は良房に次ぐ藤原氏中興の祖と言えます。

 しかし忠平の死後、藤原氏はまた外戚になることに失敗し、村上天皇の親政がスタートします。この時期、藤原氏内部の主導権争いが激しさを増します。実頼・師輔兄弟、兼通・兼家兄弟、道隆・道兼・道長兄弟の熾烈な出世争いです。面白いことにどれも弟が勝利しています。時平・忠平兄弟も含めると四代続けての弟の勝利です。房前と良房も嫡子ではありません。藤原氏というのはなぜか長男の分が悪い不思議な家なのです(笑)

 この時期になると家格によって官位の上限が決まってしまい、官職も家で固定化するようになってきます。忠平までは官位のトップ=摂政・関白の原則があったのですが、兼通あたりからこの原則が崩れて、最高権力者の摂政・関白が朝廷ではナンバー2以下の官位しか持っていないという現象が生じてきます。朝廷の官職の権威が薄れてきたのです。

 左大臣・右大臣といった官制上のトップは、日常的な業務を処理する官僚となっていきます。これ以降大臣は賜姓源氏や閑院流藤原氏によって占められるようになっていきます。

 また、この時期に皇室は冷泉帝、花山帝、三条帝、一条帝など病人や早死にや精神疾患者が続けて出ており近親婚の悪い影響が出たのかもしれません。摂関家の側は逆に道長以降は長生きする人物が続出しておりこっちは近親婚がうまくいっています(近親婚は劣勢の遺伝子が発現しやすくなると言うだけで、近親婚だから必ずしも生存に不利な遺伝子が発現するとは限りません)。

訂正 図は冷泉〜一条となっていますが、正しくは朱雀〜一条です。

http://seisai-kan.cocolog-nifty.com/blog/

 

過去形とか

 投稿者:きんたろう  投稿日:2010年 1月31日(日)16時59分28秒
返信・引用 編集済
  過去完了形の表現を持っていない言語だと、表現力に雲泥の差が生じてしまいます。
結果として、読み手に正確に事実を伝える事が出来ないということになってしまうわけですね。

これは当然と言えば当然で、逆に言えばフォーリナーが漢文を「憶えるのは簡単」であるということです、(^^;)

憶えるのが簡単の代わりと言っては何ですが、漢字はそれ自体を憶えるのが難しい。。。という一面を持っています。

尤も、アルファベット言語ならすらすら憶えられるほど簡単かなのか?といえば、そんなことはありません。

欧羅巴言語はアルファベットの組み合わせで単語が形成されるわけで、要するに漢字は縦の組み合わせ、英語などは横の組み合わせ、という違いだけしかないので、単語を覚える労力は変わらないように思っています。

時制を表現できないというのは、「史料」として致命的欠陥では?という感想を持っているのですが。。

その他にも、単数形、複数形の表記差がないというもあります。

で、安部さんが前に書いたように、「ファジーな部分」を、その時点の価値基準(のようなもの)で、過去を規定し、だから、今こうある事が「前例に則っているのだ」のような理論武装をしてきたのかな?と思います。
 

漢文には時制もない

 投稿者:べっちゃん  投稿日:2010年 1月30日(土)20時59分27秒
返信・引用 編集済
  もう一つ、漢文の重要な特徴として、時制がないんですよ。

過去に起きたことなのか、今起きていることなのか、将来起きるであろう事なのか、漢文ではわからないのです。

。時間の前後関係が文章からは読み取れないから。史料の時間的整合性は、事が起きた前後関係から推測するしかないんです。

「時制がない」という中国語の特徴が、文化大革命の時のあの熱狂の一因じゃないかと私は思っています。ビラとかラジオで流れているプロパガンダが、過去のものじゃなくて、今時点の自分のなすべき事として迫ってくるんです。日本語だったら「将来こういう風になるだろう」と言うところが中国語だと「こういう風であるのだ」となってしまう。将来あるべき姿と現在の状態の間に壁がないんです。

http://seisai-kan.cocolog-nifty.com/blog/

 

日本書紀は漢文で書かれている

 投稿者:べっちゃん  投稿日:2010年 1月30日(土)20時51分22秒
返信・引用
  漢文には名詞と動詞の区別がないんですよね。

藤原良房が「摂政」になったときの摂政は聖徳太子の故事を参考にして作られた官職(のようなもの、摂政は令外の官であるので官職とは言えない部分がある、基本的に無給だし)なわけですが、この藤原氏の摂政が長く続いたせいでそのイメージで聖徳太子の「摂政」を見てしまう癖が後世の人間にはついてしまっているのですよね。

ですので、私は「日本書紀」を漢文で読もうと思っています。書き下し文じゃなくて訓読文で。あれはもともと漢文として読むのが正しい読み方なんです。「日本書紀」を日本語として読むのは、訳文ですから、原典に当たっているとは言えないんですよ。

http://seisai-kan.cocolog-nifty.com/blog/

 

分からないと言えば。。

 投稿者:きんたろう  投稿日:2010年 1月29日(金)16時55分11秒
返信・引用 編集済
  「摂政」もそうです、(^^ゞ

と言っても、藤原氏の二枚看板である「摂政・関白」ではなく、聖徳太子の「摂政」なんですが。。

聖徳太子が「摂政」として政治を行ったという表現は、「又聞き」に似ているように思っています。
というのは、本当のところは、「摂政」というのは「役職or代名詞」ではなく、「動詞」として使われているのではないかと思うからです。

要するに「推古天皇に代わって政務を取り仕切った」ということを日本書紀は文章として表しているだけで、「摂政」という代名詞として使用したものではなかったのでは??ということなんです。

これは「かんい」=「官位」もそうで、元々は「冠位十二階」から来ている用語だと思います。
最初は「冠」がその人の「位」を表現していたが、冠ではなくなったが「言葉=発音」だけは残った、といったところではないでしょうか?
 

称制と即位との境が

 投稿者:べっちゃん  投稿日:2010年 1月26日(火)23時31分7秒
返信・引用
   あんまりハッキリしていなかったのかもしれませんね。前の天皇が崩御して、衆目の一致するところが何となく後継者のようなことをしていて、特にどこからも反論が出なければいつの間にか天皇になっているという、唐の律令制を導入するまでの大和の朝廷はそんな感じだったのではなかろうか・・・と最近の私は考えています。即位式というのは飛鳥時代になってからできたものなのではないでしょうか。

 それと殯が大事だったのではないでしょうか。先代の遺骸と一緒に過ごすことによって後継者の資格を得る、欽明天皇から舒明天皇あたりまでの皇位継承の経緯を見ているとそんな考え方があったように思えるんですよね。

 だとすると、孝徳天皇の即位というのは当時の人から見ても、かなり正統性に疑義があるものだったのではないかな、と思います。まあ乙巳の変を主導した学生たちにしてみれば、殯で霊力を継承するというのは前近代的で、我々は海の向こうの近代的な"天皇制"を導入するのだから皇位継承は法律的に確保で来てれば良いんだと言うことだったのかもしれません。

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称制といえぱ。。

 投稿者:きんたろう  投稿日:2010年 1月26日(火)22時34分58秒
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  天智天皇は称制してから天皇に即位していますよね。

今の感覚から言うと、「空位」の期間が案外長いといったところでしょうか。

平安時代になると、「官邸」というか「内閣」の場所は、当時の実力者の私邸がそのまま公邸にとして使われています。

時代を遡れば、「大兄」とか「別」と称された皇位継承権の持ち主の私邸は、いつでも「宮」になりうるということに行き着きます。
そういえば、天智天皇も「大兄」でした。

なので、例えば「法隆寺」が、その規模や作りが宮そのものなのかなと思えるのは、こうした理由によるのではないか?と思うわけです。

要するに「王宮」はいつでも「大王宮」になる準備が出来ていたということです、(^^;)


で、皇極天皇の仮説はオーケーとして、持統天皇が中継ぎとしてたった動機は理解できますが、となると、動機的には推古天皇と同じことになりますよね。

そうなると、「孫に位を譲ること」が動機として、回りを納得させるために十分かどうか?ということですね。
 

皇極天皇はなかったのではないかと

 投稿者:べっちゃん  投稿日:2010年 1月24日(日)23時58分32秒
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   おそらく即位していなかったのだと思います。皇后として称制(即位をせずに政治を見ること)をしていたのだと思います。鵜野皇女(持統天皇)もしばらくそうしていました。

 乙巳の変があのタイミングで発生したのは、舒明天皇の三年の喪が明けて、蘇我入鹿は軽皇子や中大兄皇子を即位させるつもりがなく、宝皇女を即位させるつもりのようだと言うことがわかったので、特に同年代だった弟の軽皇子の方が焦ったからだと私は推測しています。

 となると初めて生前に退位したのは持統天皇と言うことになります。なるほど、確かに彼女は中継ぎとして立ったので、孫が成長すれば位を譲らざるを得なかったのです。そうしなければ他の天武皇子を納得させることができなかったのだと思います。

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何だかんだ言っても

 投稿者:きんたろう  投稿日:2010年 1月24日(日)23時50分8秒
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  「生きていた人に分がある」というのは、確かにその通りだと思いました。

清和源氏(陽成源氏?)については、もし清和天皇が長生きするとか、あるいは、陽成天皇が「乱心」を起こさなければ、清和源氏が武士源氏代表にはならなかったかもしれませんよね。

天皇が生存中に退位するきっかけは、皇極天皇からだと言われていますが、目前で殺人が行われたらかと言うことが、退位する理由になる(and 周囲を納得させるに十分な理由である)というのが、実はよく分からないというか、納得出来ないまま現在進行形なんです、(^^;)
 

小学館マンガ日本史

 投稿者:べっちゃん  投稿日:2010年 1月24日(日)23時47分54秒
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   あのマンガ日本史は非常に良く歴史を再現していて、中学生の教科書として使えるくらいなのですが、今回年齢を整理してみて「あれ?」と思うシーンがいくつかあることに気がつきました。

 藤原道長が内覧の宣旨を受けて喜ぶシーンでバックに舅の源雅信・藤原穆子夫婦が喜んでいるのですが、源雅信はこの時には既に死んでいます。だから幽霊と言うことになります。

 昌泰の変で醍醐天皇に藤原時忠が菅原道真を讒言するシーンですが、この時の醍醐天皇は本来なら少年であるはずなのにマンガでは大人になっています。

 あの時の醍醐天皇は十三歳くらいでちょうど第二次反抗期でして、それでこれまでになく父親の宇多上皇に反攻したのではないかというのが私の推測です。それ以降は醍醐天皇はほとんど宇多上皇には反攻していません。時平の讒言に乗せられて道真を罰してしまったのは若さゆえの勇み足だったんですね。

 他にも足利義政が最初から最後まで同じ顔で全然歳をとらないとか、このように頻繁に登場人物の顔が変わってしまうと子供にとってわかりにくくなってしまうので、登場人物の年齢を少しいじっていたのだなと言うことがわかりました。でもまああれくらいならば許容範囲でしょう。大人向けの歴史の教科書になっている大河ドラマの方がよっぽどあれです(笑)

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第一期摂関政治と宇多親政

 投稿者:べっちゃん  投稿日:2010年 1月24日(日)22時05分29秒
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   文武天皇から醍醐天皇まで。藤原良房と藤原基経による第一期摂関政治と宇多天皇による親政の復活までです。醍醐天皇の時代の実質的な最高権力者は宇多上皇です。ただし、醍醐天皇もたまに上皇に反撥して自分の意見を通すこともありました。

 これを見て分かる通り、外祖父と幼帝の間には当然ながら通常四十以上の年齢差があり、外祖父になることは非常に難しくて、外祖父というのは非常に「レア」な存在だったんだろうなと言うことが推測できます。

 奈良時代や平安時代初期と比べてこの時代の天皇の年齢の低さには驚きます。やはり当時も幼帝の連続(清和ー陽成)は異常事態だったのだと思います。

 宇多天皇よりも年上な基経が生きている間は藤原氏に実権がありましたが、基経が死去し、天皇家と藤原氏の間の血縁関係が薄れ、さらに藤原氏の当主よりも天皇や上皇の方が年上となると、すぐに実権は天皇家の方に戻ってしまいました。摂関政治というのは政治体制としては非常に脆弱だったのです。

 また、この時期嵯峨源氏が多く活躍しています。菅原道真の失脚を主導したのは藤原氏と言うよりはむしろこれら賜姓源氏だったのではと言う説があります。時平と忠平は十分に若いので致仕間近の道真にはあまり脅威を懐いていなかったと思います。それに時平と忠平は母親を通して仁明天皇の曾孫なので醍醐天皇とははとこになります。

 それに対して、官僚として出世競争をしている賜姓源氏にとっては菅原道真は目障りな存在でした。年齢も同じくらいなので、道真が失脚すればすぐにその後釜を狙うことができます。

 また、桓武平氏が関東に土着したのもこの時期でした。中央は藤原氏や嵯峨源氏、仁明源氏に押さえられているので、この時期平氏や古代豪族が地方に活路を求めて流れていったのではと言われています。

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鎌倉幕府の成立も

 投稿者:べっちゃん  投稿日:2010年 1月24日(日)21時41分10秒
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  保元の乱からスタートさせて、承久の乱まで同じようなのが作れそうですよね。

それにしても見事なぐらいぴったりとはまっていますね。

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安部さんの真似をして

 投稿者:きんたろう  投稿日:2010年 1月23日(土)15時17分35秒
返信・引用 編集済
  私も、大化の改新付近から年表形式のものを作ってみた(未完)のですが、これを掲示板とかブログに直接貼り付けても形式が崩れてしまいますね、(^^;)

やはり、タグで囲まないときれいに表示できないのですが、とりあえず下記の表を載せてみました。


645、1582 大化の改新、本能寺の変、山崎の戦い
646、1583 賤ヶ岳の戦い
647、1584
648、1585
649、1586
650、1587
651、1588
652、1589
653、1590
654、1591
655、1592 斉明天皇 文禄の役
656、1593
657、1594
658、1595
659、1596 慶長の役
660、1597 百済滅亡
661、1598
662、1599
663、1600 白村江の戦い 関ヶ原の戦い
664、1601
665、1602
666、1603 徳川幕府
667、1604
668、1605 天智天皇
669、1606
670、1607
671、1608
672、1609
673、1610 壬申の乱
674、1611
675、1612
676、1613
677、1614 大阪冬の陣
678、1615 大阪夏の陣


で、何を言いたいのかというと、930年くらいの時空を経て同じような事象が同じような順序で起こったということです。


橘諸兄とか長屋王近辺は表が大きすぎて。。。わかりやすく表現するのが難しいです、(^^;)

but 藤原氏勃興編へつづく。。予定
 

桓武天皇と嵯峨天皇の時代(2)

 投稿者:べっちゃん  投稿日:2010年 1月17日(日)23時20分51秒
返信・引用 編集済
   嵯峨天皇の時代になると、貴族のトップはさすがに藤原氏が続くようになります。この理由は蔭位の制度です。父・祖父の官位によって貴族のスタート時点の官位が変わる制度で、当然門閥貴族に有利にできています。

 貴族の新規採用は毎年一人か二人くらいなのですが、新規に採用される貴族はこの蔭位制を勘案して、貴族の総意と持ち回りで決められることになります。その時々の貴族の比率で新しく貴族になれる人が決まるわけですので、数の多い貴族が有利になります。

 なぜ藤原氏が有利になったかというと、遡って考えるに、不比等の息子の藤原四兄弟が四人とも公卿になったのが最大の理由ではないかと思います。他の氏族はせいぜい二人くらいのところを、藤原氏は四人ですので、スタート地点で人数が倍です。

 貴族の人数には限りがありますので、新規採用が現時点での氏族比率の関数で、それによって採用された貴族の子弟が次の世代の新規採用の候補者になるわけですので、スタート地点で人数が倍の貴族は、時間を追うにつれて徐々に割合が増加するのは当然です。単純な鼠算です。

 けれども嵯峨天皇の時期は、まだ有力な皇孫や、橘氏などが生き残っていて、右大臣や大納言などに採用されています。まだ摂関政治の時代のように、藤原家の御曹司を手順を飛び越して参議からスタートさせる、というような依怙贔屓は行われていないため、藤原氏と言えども出世するまでに時間がかかり、中年以上で大臣になるため、一人で長い間大臣を独占することもありませんでした。

 嵯峨天皇は若くして朝廷で権威を確立しているのですが、これは薬子の変に勝利したのが大きいのではないかと私は思います。戦争に勝つのはインパクトが大きいですからね。軍人を掌握してしまえば、文官はクーデタを起こそうにもなかなか手出しができません。

 律令制度では文官と武官の分離が厳密ですので、文官は軍人に直接命令ができません。軍人に命令ができるのは天皇だけです。院政期に天皇家が武士を利用して摂関家を牽制するのはこのような制度的な理由があるからだと思います。皇孫が軍事貴族になるのもそうでしょう。

 これに対して藤原家は近衛兵を掌握することで、宮城という狭い範囲内の軍事権を支配下にして朝廷で指導権を握ろうと普請します。

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桓武天皇と嵯峨天皇の時代(1)

 投稿者:べっちゃん  投稿日:2010年 1月16日(土)23時20分51秒
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   この時代は桓武天皇と嵯峨天皇(嵯峨上皇)が強力なリーダーシップを発揮した時代です。桓武天皇は政変をくぐり抜けて皇太子になり壮年で即位し、遷都や俘囚の征討などの大事業を進めました。

 桓武天皇は藤原是公や継縄など南家の貴族や、種継などの式家の貴族を重用しました。北家はちょうど世代の交代期で後継者が育っていませんでした。同時に桓武天皇は石川名足、紀古佐美、神王(みわおう)、菅野真道といった非藤原家も重用して藤原氏を牽制したのではないかと推測されます。

 また、彼等は桓武天皇と同世代ですので、天皇としても気安かったのではないでしょうか?

 グラフから見て分かるように、桓武天皇の治世の後半は藤原氏は世代が更新してしまい(若返ると言うことは官位が下がるのと同じこと)権力から遠ざかってしまいます。菅野真道などはたたき上げの官僚です。たたき上げで参議まで上がるなど飛鳥時代や奈良時代の前期では考えられないことでした。この頃までは日本の朝廷もある程度実力主義が実現していたのかもしれません。

 補足ですが、坂上田村麻呂は意外と若かったこともわかります。前線で戦う軍人ですから考えてみれば当然かもしれません。

 天皇が成年の場合、基本的に日本の朝廷では天皇の親政が行われます。摂関家の全盛期であっても、成年の天皇は結構主体的に判断を下したりしています。だから文徳天皇に皇太子の変更を強要した良房や、三条天皇に退位を強要した道長はかなり特殊な例です。

 上皇や皇太后など天皇の尊属がいる場合は、天皇よりもこれら院の意向の方が優先する場合が多いです。

 菅野真道 (741〜814) 津連 百済王氏
  778年小内記、右衛士少尉、左兵衛左、東宮学士、図書頭などを歴任。
  790年 上表して菅野朝臣姓を賜った。時に従五位上
  桓武天皇の信任篤く、平安遷都事業にも深く関与
  805年 参議、藤原緒嗣との徳政論争
  続日本紀の編纂に携わる、従三位まで上る

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Re: 桓武天皇と嵯峨天皇の時代

 投稿者:きんたろう  投稿日:2010年 1月16日(土)21時28分55秒
返信・引用 編集済
  > No.3715[元記事へ]

楽しみにしています。

よろしくお願いします。
 

このキーボードの

 投稿者:きんたろう  投稿日:2010年 1月16日(土)21時26分7秒
返信・引用
  のピッチは間隔が微妙に狭いので、ネットで検索する分には全く問題ないのですが、文字入力をするとなるとちょっと使いづらいですね、(^^;

ところで、恵美押勝の発音は「えみし」に勘違いしやすいように感じているのですが、どうなんでしょう?
 

Re: 年末にキーボード入力が

 投稿者:きんたろう  投稿日:2010年 1月16日(土)21時15分46秒
返信・引用
  > No.3711[元記事へ]

hn2602さん、こちらこそよろしくお願いします。

PCは買い換えた方がお得な時代に入りました。

私も昨年4月頃にこのPCを買いましたが、今のPCはかつてオプション対応だったほとんどの機能が「標準」装備になっているので、かなり楽です。

ただし、キーボードはやはりノートよりも一般的な109の方が使い易いですね。(^^;)
 

桓武天皇と嵯峨天皇の時代

 投稿者:べっちゃん  投稿日:2010年 1月16日(土)14時44分36秒
返信・引用 編集済
  桓武天皇即位から、藤原良房の登場までをグラフにしました。

これから出掛けてきますので、解説は帰ってから書きます。

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