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(無題)

 投稿者:副長  投稿日:2010年 2月 9日(火)19時21分18秒
返信・引用
  http://musoh.jp/new/index.php?fid=f7cdea47e1da34a79f05736a386ce5a6&guid=ON
出来る方は登録お願いします土下座
 

藤原氏

 投稿者:きんたろう  投稿日:2010年 2月 8日(月)00時32分9秒
返信・引用
  の場合は、新設の「氏」だったので、本来の氏と言うよりは、「家」に近い感じがします。
それが孫の代に4家に別れ、それらが更に分裂していくことによって、本来の氏になっていった。。のではないでしょうか。

で、藤原氏の姓である「朝臣」は八色姓では第2位にランキングしていますが、これが鎌足−不比等の血統に限るようになった理由とされていますよね。


ところで、八色姓が制定される前から「姓」はありますし、氏と名字などの区別が難しいと感じています。(^^ゞ
 

強力な外戚がいない場合

 投稿者:べっちゃん  投稿日:2010年 2月 3日(水)21時54分18秒
返信・引用 編集済
   明治以降と違いまして、平安時代までは有力な皇位継承権保有者が複数いるのが常態でしたので、強力な外戚がなく、上皇も生き残っていないような場合には、分別のある成人が皇位につき、親政と言うことになったのだと思います。

 光仁天皇、光孝天皇、後三条院、後嵯峨院のパターンです。

 父親も祖父もいない、強力な外戚もいないでは保護者が全くいないことになって、朝廷の収拾がつかなくなります。

 これに近いのが、冷泉院、円融院、花山院の頃で一時的に南北朝時代みたいに両統迭立状態になっています。称徳天皇の時代もそれに近いです。称徳天皇は成人ですが女性でしたのでやはり政治が不安定になりました。

 もう一つ似たような状況がありまして・・・即位直後の明治天皇なんですよね。実際この時には薩長が勝手に密勅を出したりとかなり滅茶苦茶なことが行われています。

http://seisai-kan.cocolog-nifty.com/blog/

 

だいたいそのような理解でいいかと

 投稿者:べっちゃん  投稿日:2010年 2月 3日(水)21時30分4秒
返信・引用
  天皇が成人の場合は天皇親政、幼少で父親か祖父が生きていれば院政になります。

一条天皇も成人してからは道長に対してそれなりに主導権を発揮しています。摂関政治というのは多分に日本的な空気による力関係で主導する側が決まるような部分がありまして、天皇が本気になって主導権を発揮し始めたら、摂関家でもそれは止められなかったんです。

承久の乱で主要な皇族がほとんど流罪になったという状況が生じたことがあるのですが、その時は後鳥羽上皇の兄の守貞親王(この時期既に出家していた)の息子が即位し(後堀河院)、天皇になったことがない守貞親王が院政を開いています。

白河院以降、生前の譲位が多くなるのですが、これは壮年の天皇が薨去して、その後に残された幼帝を摂関がサポートするという摂関政治のパターンを回避するための皇室の防衛策だったのではないかと私は考えています。

それと、皇位継承権を持つ皇族を多く確保するためです。自分の息子や孫たちを順繰りに即位させておいて、病気などで皇位継承者がいなくなることを防ぐと同時に、特定の貴族に権力が集中することを防ぐ(外戚を複数作ってしまって、それらを牽制させることで院の権力を維持する)、わけです。

この摂関政治回避作戦が裏目に出たのが持明院統と大覚寺統の迭立なんですよね。

http://seisai-kan.cocolog-nifty.com/blog/

 

確かに

 投稿者:きんたろう  投稿日:2010年 2月 2日(火)23時03分16秒
返信・引用 編集済
  藤原氏の外戚として縁故関係はすごいですが、藤原氏が外戚になれなくて政治力を発揮出来なかったときは、天皇親政という方式が成り立つのでしょうか?

今になって疑問が湧いてきました、(^^;)
 

忠平の時代から道長の登場まで

 投稿者:べっちゃん  投稿日:2010年 2月 1日(月)20時14分16秒
返信・引用 編集済
   良房、基経と政治の実権を握った藤原氏でしたが、折角擁立した陽成帝には精神的疾患があり、完全ダークホースだった光孝天皇に皇位が移って縁戚計画は振り出しに戻ってしまいます。

 宇多天皇の母親は皇族(桓武天皇孫)の班子女王であり、宇多天皇が若年の間は皇族の重鎮として重きをなしました。強力な指導力を持ち、人望もあった基経が五十代半ばで死去してしまったことも藤原氏には不利に働きました。その後にはまだ二十代そこそこの時平、忠平兄弟が残されました。

 藤原氏よりも年長の宇多上皇、成年の醍醐天皇の下で朝廷政治の理想と謳われた延喜の治が実現します。時平は早死にしたので、藤原氏の当主は若い忠平になりました。忠平の母親は皇女ですので、忠平は準皇族のようなものにあたり、それによって異例の三十代での左大臣となったものと考えられます。結局忠平は六十九歳で死ぬまで四十年間官位最上位であり続けます(おそらく日本史の最長記録)。醍醐天皇が道真の怨霊の心労によってか四十代で薨去してしまったため、若い朱雀天皇に位が遷り、宇多上皇の死後は長い忠平の摂政時代が続きます。

 穏和な人格のため、目立っていませんが、忠平は良房に次ぐ藤原氏中興の祖と言えます。

 しかし忠平の死後、藤原氏はまた外戚になることに失敗し、村上天皇の親政がスタートします。この時期、藤原氏内部の主導権争いが激しさを増します。実頼・師輔兄弟、兼通・兼家兄弟、道隆・道兼・道長兄弟の熾烈な出世争いです。面白いことにどれも弟が勝利しています。時平・忠平兄弟も含めると四代続けての弟の勝利です。房前と良房も嫡子ではありません。藤原氏というのはなぜか長男の分が悪い不思議な家なのです(笑)

 この時期になると家格によって官位の上限が決まってしまい、官職も家で固定化するようになってきます。忠平までは官位のトップ=摂政・関白の原則があったのですが、兼通あたりからこの原則が崩れて、最高権力者の摂政・関白が朝廷ではナンバー2以下の官位しか持っていないという現象が生じてきます。朝廷の官職の権威が薄れてきたのです。

 左大臣・右大臣といった官制上のトップは、日常的な業務を処理する官僚となっていきます。これ以降大臣は賜姓源氏や閑院流藤原氏によって占められるようになっていきます。

 また、この時期に皇室は冷泉帝、花山帝、三条帝、一条帝など病人や早死にや精神疾患者が続けて出ており近親婚の悪い影響が出たのかもしれません。摂関家の側は逆に道長以降は長生きする人物が続出しておりこっちは近親婚がうまくいっています(近親婚は劣勢の遺伝子が発現しやすくなると言うだけで、近親婚だから必ずしも生存に不利な遺伝子が発現するとは限りません)。

訂正 図は冷泉〜一条となっていますが、正しくは朱雀〜一条です。

http://seisai-kan.cocolog-nifty.com/blog/

 

過去形とか

 投稿者:きんたろう  投稿日:2010年 1月31日(日)16時59分28秒
返信・引用 編集済
  過去完了形の表現を持っていない言語だと、表現力に雲泥の差が生じてしまいます。
結果として、読み手に正確に事実を伝える事が出来ないということになってしまうわけですね。

これは当然と言えば当然で、逆に言えばフォーリナーが漢文を「憶えるのは簡単」であるということです、(^^;)

憶えるのが簡単の代わりと言っては何ですが、漢字はそれ自体を憶えるのが難しい。。。という一面を持っています。

尤も、アルファベット言語ならすらすら憶えられるほど簡単かなのか?といえば、そんなことはありません。

欧羅巴言語はアルファベットの組み合わせで単語が形成されるわけで、要するに漢字は縦の組み合わせ、英語などは横の組み合わせ、という違いだけしかないので、単語を覚える労力は変わらないように思っています。

時制を表現できないというのは、「史料」として致命的欠陥では?という感想を持っているのですが。。

その他にも、単数形、複数形の表記差がないというもあります。

で、安部さんが前に書いたように、「ファジーな部分」を、その時点の価値基準(のようなもの)で、過去を規定し、だから、今こうある事が「前例に則っているのだ」のような理論武装をしてきたのかな?と思います。
 

漢文には時制もない

 投稿者:べっちゃん  投稿日:2010年 1月30日(土)20時59分27秒
返信・引用 編集済
  もう一つ、漢文の重要な特徴として、時制がないんですよ。

過去に起きたことなのか、今起きていることなのか、将来起きるであろう事なのか、漢文ではわからないのです。

。時間の前後関係が文章からは読み取れないから。史料の時間的整合性は、事が起きた前後関係から推測するしかないんです。

「時制がない」という中国語の特徴が、文化大革命の時のあの熱狂の一因じゃないかと私は思っています。ビラとかラジオで流れているプロパガンダが、過去のものじゃなくて、今時点の自分のなすべき事として迫ってくるんです。日本語だったら「将来こういう風になるだろう」と言うところが中国語だと「こういう風であるのだ」となってしまう。将来あるべき姿と現在の状態の間に壁がないんです。

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日本書紀は漢文で書かれている

 投稿者:べっちゃん  投稿日:2010年 1月30日(土)20時51分22秒
返信・引用
  漢文には名詞と動詞の区別がないんですよね。

藤原良房が「摂政」になったときの摂政は聖徳太子の故事を参考にして作られた官職(のようなもの、摂政は令外の官であるので官職とは言えない部分がある、基本的に無給だし)なわけですが、この藤原氏の摂政が長く続いたせいでそのイメージで聖徳太子の「摂政」を見てしまう癖が後世の人間にはついてしまっているのですよね。

ですので、私は「日本書紀」を漢文で読もうと思っています。書き下し文じゃなくて訓読文で。あれはもともと漢文として読むのが正しい読み方なんです。「日本書紀」を日本語として読むのは、訳文ですから、原典に当たっているとは言えないんですよ。

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分からないと言えば。。

 投稿者:きんたろう  投稿日:2010年 1月29日(金)16時55分11秒
返信・引用 編集済
  「摂政」もそうです、(^^ゞ

と言っても、藤原氏の二枚看板である「摂政・関白」ではなく、聖徳太子の「摂政」なんですが。。

聖徳太子が「摂政」として政治を行ったという表現は、「又聞き」に似ているように思っています。
というのは、本当のところは、「摂政」というのは「役職or代名詞」ではなく、「動詞」として使われているのではないかと思うからです。

要するに「推古天皇に代わって政務を取り仕切った」ということを日本書紀は文章として表しているだけで、「摂政」という代名詞として使用したものではなかったのでは??ということなんです。

これは「かんい」=「官位」もそうで、元々は「冠位十二階」から来ている用語だと思います。
最初は「冠」がその人の「位」を表現していたが、冠ではなくなったが「言葉=発音」だけは残った、といったところではないでしょうか?
 

称制と即位との境が

 投稿者:べっちゃん  投稿日:2010年 1月26日(火)23時31分7秒
返信・引用
   あんまりハッキリしていなかったのかもしれませんね。前の天皇が崩御して、衆目の一致するところが何となく後継者のようなことをしていて、特にどこからも反論が出なければいつの間にか天皇になっているという、唐の律令制を導入するまでの大和の朝廷はそんな感じだったのではなかろうか・・・と最近の私は考えています。即位式というのは飛鳥時代になってからできたものなのではないでしょうか。

 それと殯が大事だったのではないでしょうか。先代の遺骸と一緒に過ごすことによって後継者の資格を得る、欽明天皇から舒明天皇あたりまでの皇位継承の経緯を見ているとそんな考え方があったように思えるんですよね。

 だとすると、孝徳天皇の即位というのは当時の人から見ても、かなり正統性に疑義があるものだったのではないかな、と思います。まあ乙巳の変を主導した学生たちにしてみれば、殯で霊力を継承するというのは前近代的で、我々は海の向こうの近代的な"天皇制"を導入するのだから皇位継承は法律的に確保で来てれば良いんだと言うことだったのかもしれません。

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称制といえぱ。。

 投稿者:きんたろう  投稿日:2010年 1月26日(火)22時34分58秒
返信・引用 編集済
  天智天皇は称制してから天皇に即位していますよね。

今の感覚から言うと、「空位」の期間が案外長いといったところでしょうか。

平安時代になると、「官邸」というか「内閣」の場所は、当時の実力者の私邸がそのまま公邸にとして使われています。

時代を遡れば、「大兄」とか「別」と称された皇位継承権の持ち主の私邸は、いつでも「宮」になりうるということに行き着きます。
そういえば、天智天皇も「大兄」でした。

なので、例えば「法隆寺」が、その規模や作りが宮そのものなのかなと思えるのは、こうした理由によるのではないか?と思うわけです。

要するに「王宮」はいつでも「大王宮」になる準備が出来ていたということです、(^^;)


で、皇極天皇の仮説はオーケーとして、持統天皇が中継ぎとしてたった動機は理解できますが、となると、動機的には推古天皇と同じことになりますよね。

そうなると、「孫に位を譲ること」が動機として、回りを納得させるために十分かどうか?ということですね。
 

皇極天皇はなかったのではないかと

 投稿者:べっちゃん  投稿日:2010年 1月24日(日)23時58分32秒
返信・引用
   おそらく即位していなかったのだと思います。皇后として称制(即位をせずに政治を見ること)をしていたのだと思います。鵜野皇女(持統天皇)もしばらくそうしていました。

 乙巳の変があのタイミングで発生したのは、舒明天皇の三年の喪が明けて、蘇我入鹿は軽皇子や中大兄皇子を即位させるつもりがなく、宝皇女を即位させるつもりのようだと言うことがわかったので、特に同年代だった弟の軽皇子の方が焦ったからだと私は推測しています。

 となると初めて生前に退位したのは持統天皇と言うことになります。なるほど、確かに彼女は中継ぎとして立ったので、孫が成長すれば位を譲らざるを得なかったのです。そうしなければ他の天武皇子を納得させることができなかったのだと思います。

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何だかんだ言っても

 投稿者:きんたろう  投稿日:2010年 1月24日(日)23時50分8秒
返信・引用
  「生きていた人に分がある」というのは、確かにその通りだと思いました。

清和源氏(陽成源氏?)については、もし清和天皇が長生きするとか、あるいは、陽成天皇が「乱心」を起こさなければ、清和源氏が武士源氏代表にはならなかったかもしれませんよね。

天皇が生存中に退位するきっかけは、皇極天皇からだと言われていますが、目前で殺人が行われたらかと言うことが、退位する理由になる(and 周囲を納得させるに十分な理由である)というのが、実はよく分からないというか、納得出来ないまま現在進行形なんです、(^^;)
 

小学館マンガ日本史

 投稿者:べっちゃん  投稿日:2010年 1月24日(日)23時47分54秒
返信・引用 編集済
   あのマンガ日本史は非常に良く歴史を再現していて、中学生の教科書として使えるくらいなのですが、今回年齢を整理してみて「あれ?」と思うシーンがいくつかあることに気がつきました。

 藤原道長が内覧の宣旨を受けて喜ぶシーンでバックに舅の源雅信・藤原穆子夫婦が喜んでいるのですが、源雅信はこの時には既に死んでいます。だから幽霊と言うことになります。

 昌泰の変で醍醐天皇に藤原時忠が菅原道真を讒言するシーンですが、この時の醍醐天皇は本来なら少年であるはずなのにマンガでは大人になっています。

 あの時の醍醐天皇は十三歳くらいでちょうど第二次反抗期でして、それでこれまでになく父親の宇多上皇に反攻したのではないかというのが私の推測です。それ以降は醍醐天皇はほとんど宇多上皇には反攻していません。時平の讒言に乗せられて道真を罰してしまったのは若さゆえの勇み足だったんですね。

 他にも足利義政が最初から最後まで同じ顔で全然歳をとらないとか、このように頻繁に登場人物の顔が変わってしまうと子供にとってわかりにくくなってしまうので、登場人物の年齢を少しいじっていたのだなと言うことがわかりました。でもまああれくらいならば許容範囲でしょう。大人向けの歴史の教科書になっている大河ドラマの方がよっぽどあれです(笑)

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第一期摂関政治と宇多親政

 投稿者:べっちゃん  投稿日:2010年 1月24日(日)22時05分29秒
返信・引用 編集済
   文武天皇から醍醐天皇まで。藤原良房と藤原基経による第一期摂関政治と宇多天皇による親政の復活までです。醍醐天皇の時代の実質的な最高権力者は宇多上皇です。ただし、醍醐天皇もたまに上皇に反撥して自分の意見を通すこともありました。

 これを見て分かる通り、外祖父と幼帝の間には当然ながら通常四十以上の年齢差があり、外祖父になることは非常に難しくて、外祖父というのは非常に「レア」な存在だったんだろうなと言うことが推測できます。

 奈良時代や平安時代初期と比べてこの時代の天皇の年齢の低さには驚きます。やはり当時も幼帝の連続(清和ー陽成)は異常事態だったのだと思います。

 宇多天皇よりも年上な基経が生きている間は藤原氏に実権がありましたが、基経が死去し、天皇家と藤原氏の間の血縁関係が薄れ、さらに藤原氏の当主よりも天皇や上皇の方が年上となると、すぐに実権は天皇家の方に戻ってしまいました。摂関政治というのは政治体制としては非常に脆弱だったのです。

 また、この時期嵯峨源氏が多く活躍しています。菅原道真の失脚を主導したのは藤原氏と言うよりはむしろこれら賜姓源氏だったのではと言う説があります。時平と忠平は十分に若いので致仕間近の道真にはあまり脅威を懐いていなかったと思います。それに時平と忠平は母親を通して仁明天皇の曾孫なので醍醐天皇とははとこになります。

 それに対して、官僚として出世競争をしている賜姓源氏にとっては菅原道真は目障りな存在でした。年齢も同じくらいなので、道真が失脚すればすぐにその後釜を狙うことができます。

 また、桓武平氏が関東に土着したのもこの時期でした。中央は藤原氏や嵯峨源氏、仁明源氏に押さえられているので、この時期平氏や古代豪族が地方に活路を求めて流れていったのではと言われています。

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鎌倉幕府の成立も

 投稿者:べっちゃん  投稿日:2010年 1月24日(日)21時41分10秒
返信・引用
  保元の乱からスタートさせて、承久の乱まで同じようなのが作れそうですよね。

それにしても見事なぐらいぴったりとはまっていますね。

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安部さんの真似をして

 投稿者:きんたろう  投稿日:2010年 1月23日(土)15時17分35秒
返信・引用 編集済
  私も、大化の改新付近から年表形式のものを作ってみた(未完)のですが、これを掲示板とかブログに直接貼り付けても形式が崩れてしまいますね、(^^;)

やはり、タグで囲まないときれいに表示できないのですが、とりあえず下記の表を載せてみました。


645、1582 大化の改新、本能寺の変、山崎の戦い
646、1583 賤ヶ岳の戦い
647、1584
648、1585
649、1586
650、1587
651、1588
652、1589
653、1590
654、1591
655、1592 斉明天皇 文禄の役
656、1593
657、1594
658、1595
659、1596 慶長の役
660、1597 百済滅亡
661、1598
662、1599
663、1600 白村江の戦い 関ヶ原の戦い
664、1601
665、1602
666、1603 徳川幕府
667、1604
668、1605 天智天皇
669、1606
670、1607
671、1608
672、1609
673、1610 壬申の乱
674、1611
675、1612
676、1613
677、1614 大阪冬の陣
678、1615 大阪夏の陣


で、何を言いたいのかというと、930年くらいの時空を経て同じような事象が同じような順序で起こったということです。


橘諸兄とか長屋王近辺は表が大きすぎて。。。わかりやすく表現するのが難しいです、(^^;)

but 藤原氏勃興編へつづく。。予定
 

桓武天皇と嵯峨天皇の時代(2)

 投稿者:べっちゃん  投稿日:2010年 1月17日(日)23時20分51秒
返信・引用 編集済
   嵯峨天皇の時代になると、貴族のトップはさすがに藤原氏が続くようになります。この理由は蔭位の制度です。父・祖父の官位によって貴族のスタート時点の官位が変わる制度で、当然門閥貴族に有利にできています。

 貴族の新規採用は毎年一人か二人くらいなのですが、新規に採用される貴族はこの蔭位制を勘案して、貴族の総意と持ち回りで決められることになります。その時々の貴族の比率で新しく貴族になれる人が決まるわけですので、数の多い貴族が有利になります。

 なぜ藤原氏が有利になったかというと、遡って考えるに、不比等の息子の藤原四兄弟が四人とも公卿になったのが最大の理由ではないかと思います。他の氏族はせいぜい二人くらいのところを、藤原氏は四人ですので、スタート地点で人数が倍です。

 貴族の人数には限りがありますので、新規採用が現時点での氏族比率の関数で、それによって採用された貴族の子弟が次の世代の新規採用の候補者になるわけですので、スタート地点で人数が倍の貴族は、時間を追うにつれて徐々に割合が増加するのは当然です。単純な鼠算です。

 けれども嵯峨天皇の時期は、まだ有力な皇孫や、橘氏などが生き残っていて、右大臣や大納言などに採用されています。まだ摂関政治の時代のように、藤原家の御曹司を手順を飛び越して参議からスタートさせる、というような依怙贔屓は行われていないため、藤原氏と言えども出世するまでに時間がかかり、中年以上で大臣になるため、一人で長い間大臣を独占することもありませんでした。

 嵯峨天皇は若くして朝廷で権威を確立しているのですが、これは薬子の変に勝利したのが大きいのではないかと私は思います。戦争に勝つのはインパクトが大きいですからね。軍人を掌握してしまえば、文官はクーデタを起こそうにもなかなか手出しができません。

 律令制度では文官と武官の分離が厳密ですので、文官は軍人に直接命令ができません。軍人に命令ができるのは天皇だけです。院政期に天皇家が武士を利用して摂関家を牽制するのはこのような制度的な理由があるからだと思います。皇孫が軍事貴族になるのもそうでしょう。

 これに対して藤原家は近衛兵を掌握することで、宮城という狭い範囲内の軍事権を支配下にして朝廷で指導権を握ろうと普請します。

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桓武天皇と嵯峨天皇の時代(1)

 投稿者:べっちゃん  投稿日:2010年 1月16日(土)23時20分51秒
返信・引用 編集済
   この時代は桓武天皇と嵯峨天皇(嵯峨上皇)が強力なリーダーシップを発揮した時代です。桓武天皇は政変をくぐり抜けて皇太子になり壮年で即位し、遷都や俘囚の征討などの大事業を進めました。

 桓武天皇は藤原是公や継縄など南家の貴族や、種継などの式家の貴族を重用しました。北家はちょうど世代の交代期で後継者が育っていませんでした。同時に桓武天皇は石川名足、紀古佐美、神王(みわおう)、菅野真道といった非藤原家も重用して藤原氏を牽制したのではないかと推測されます。

 また、彼等は桓武天皇と同世代ですので、天皇としても気安かったのではないでしょうか?

 グラフから見て分かるように、桓武天皇の治世の後半は藤原氏は世代が更新してしまい(若返ると言うことは官位が下がるのと同じこと)権力から遠ざかってしまいます。菅野真道などはたたき上げの官僚です。たたき上げで参議まで上がるなど飛鳥時代や奈良時代の前期では考えられないことでした。この頃までは日本の朝廷もある程度実力主義が実現していたのかもしれません。

 補足ですが、坂上田村麻呂は意外と若かったこともわかります。前線で戦う軍人ですから考えてみれば当然かもしれません。

 天皇が成年の場合、基本的に日本の朝廷では天皇の親政が行われます。摂関家の全盛期であっても、成年の天皇は結構主体的に判断を下したりしています。だから文徳天皇に皇太子の変更を強要した良房や、三条天皇に退位を強要した道長はかなり特殊な例です。

 上皇や皇太后など天皇の尊属がいる場合は、天皇よりもこれら院の意向の方が優先する場合が多いです。

 菅野真道 (741〜814) 津連 百済王氏
  778年小内記、右衛士少尉、左兵衛左、東宮学士、図書頭などを歴任。
  790年 上表して菅野朝臣姓を賜った。時に従五位上
  桓武天皇の信任篤く、平安遷都事業にも深く関与
  805年 参議、藤原緒嗣との徳政論争
  続日本紀の編纂に携わる、従三位まで上る

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Re: 桓武天皇と嵯峨天皇の時代

 投稿者:きんたろう  投稿日:2010年 1月16日(土)21時28分55秒
返信・引用 編集済
  > No.3715[元記事へ]

楽しみにしています。

よろしくお願いします。
 

このキーボードの

 投稿者:きんたろう  投稿日:2010年 1月16日(土)21時26分7秒
返信・引用
  のピッチは間隔が微妙に狭いので、ネットで検索する分には全く問題ないのですが、文字入力をするとなるとちょっと使いづらいですね、(^^;

ところで、恵美押勝の発音は「えみし」に勘違いしやすいように感じているのですが、どうなんでしょう?
 

Re: 年末にキーボード入力が

 投稿者:きんたろう  投稿日:2010年 1月16日(土)21時15分46秒
返信・引用
  > No.3711[元記事へ]

hn2602さん、こちらこそよろしくお願いします。

PCは買い換えた方がお得な時代に入りました。

私も昨年4月頃にこのPCを買いましたが、今のPCはかつてオプション対応だったほとんどの機能が「標準」装備になっているので、かなり楽です。

ただし、キーボードはやはりノートよりも一般的な109の方が使い易いですね。(^^;)
 

桓武天皇と嵯峨天皇の時代

 投稿者:べっちゃん  投稿日:2010年 1月16日(土)14時44分36秒
返信・引用 編集済
  桓武天皇即位から、藤原良房の登場までをグラフにしました。

これから出掛けてきますので、解説は帰ってから書きます。

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奈良時代の年齢グラフ

 投稿者:べっちゃん  投稿日:2010年 1月16日(土)14時42分30秒
返信・引用 編集済
  整理して見やすくしました。


 訂正:内臣藤原良継は藤原式家です。

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橘嘉智子

 投稿者:べっちゃん  投稿日:2010年 1月16日(土)01時21分44秒
返信・引用 編集済
   そういえば、光明子の次に臣籍出身で皇后になった女性は藤原氏ではなくて壇林皇后(橘嘉智子)なんですよね。データベースを作成していて気がつきました。

 橘氏は臣籍降下した家柄なので遡れば皇族ですが、敏達天皇まで遡らなければならず、やはり臣籍です。

 光明子以来ずっと藤原氏が皇后を皇后を独占していたと漠然と思っていたので意外でした。

 壇林皇后の娘の正子内親王も淳和天皇の皇后となりますが、承和の変により淳和天皇と正子内親王の間の子供である恒貞親王は廃太子されてしまいますので、正子内親王は実権は持てませんでした。

 ちなみに承和の変の首謀者が藤原良房だというのには無理があり、これは息子の道康親王への皇位継承を確保したかった仁明天皇の意向だと思います。事変が起きたのが恒貞親王を皇太子にさせた嵯峨上皇の崩御のすぐ後であり、仁明天皇の御所の護衛兵が恒貞親王排除に活躍しているからです。

 橘嘉智子、正子内親王の次に皇后になったのは藤原穏子で、正子内親王の立后の百年後です。どうやら皇后というのは平安時代前期にはいないのが普通だったようです(皇太后はその間何回か立てられている)。

 藤原穏子は藤原基経の娘ですが、母親が皇族の操子女王で、仁明天皇の孫、宇多天皇の従妹にあたります。ですので藤原氏と言うよりは半分皇族みたいなものです。

 初めて純臣籍出身の人物として皇后になったのは定子ですが、母の高階氏は実は長屋王の末裔なので一応皇族の子孫です。同じく一条天皇の中宮になった彰子も母の源倫子は宇多源氏です。院政期の皇后も基本的に村上源氏が多いです。

 こうしてみると、純藤原氏の皇后というのは平安、鎌倉を通してそんなにはいなかったのではないかという気がします。

 あと・・・鎌足や不比等の子供が準皇族扱いされているのを見るにつけ、もしかして不比等も天智天皇の子供だったのではないか?という思いが強くなってきます。

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河内源氏

 投稿者:hn2602  投稿日:2010年 1月15日(金)23時06分30秒
返信・引用
   河内源氏の本領は、石川郡だったと思います。八幡太郎義家の五男陸奥五郎義時が、石川氏を名乗っています。義家の男子はみな、陸奥を排行の前に付けています。
陸奥次郎義親(為義はその四男で叔父の河内守義忠の養嗣子)、三郎義国(新田・足利両氏祖)、河内守義忠、陸奥五郎義時(石川氏)、陸奥六郎義隆(平治の乱で義朝方に参戦して敗死、森/毛利冠者頼義の父)の五子(長子吉宗は早世)の内、対馬守義親の反逆後、義家は義忠を後嗣と定め、その後は為義に定めましたが、義忠の実子は河内太郎等と称しています。父の義忠が河内守だったからでしょう。
 

年末にキーボード入力が

 投稿者:hn2602  投稿日:2010年 1月15日(金)22時49分0秒
返信・引用
  出来なくなり、新年のの挨拶もできませんでした。
1月4日に勤務先の職員が古いキーボードを持ってきて、接続するという話になりましたが、なんと今度はPCが起動しなくなりました。
結局、修理を依頼してメーカー(シャープ)にまで、行っている(部品の都合上10日かかるとの話)のですが、以前のPCが勤務先に回線を外しておいてあったのを業者が接続してくれて何とか、それまでの繋ぎをしている状態です。
 う〜ん、機械は苦手です。トホホ。

 遅ればせながら、新年のご挨拶を申し上げます。
 

藤原氏

 投稿者:きんたろう  投稿日:2010年 1月14日(木)19時33分51秒
返信・引用
  の栄華と一口に言っても、不比等の子供時代には壬申の乱があったし、その後も藤原広嗣の乱、恵美押勝の乱、薬子の変など、藤原氏内部での勢力図の地殻変動は凄まじいものがありますよね。

つづく。。予定
 

吉備真備、大中臣清麻呂

 投稿者:べっちゃん  投稿日:2010年 1月12日(火)23時21分43秒
返信・引用
  称徳天皇〜光仁天皇〜桓武天皇の時代は、天皇が比較的年長で、さらに官位最上級かつ最高齢の貴族が、

吉備真備(吉備国造)→大中臣清麻呂(中臣氏)→石川名足(蘇我氏)→紀古左美(紀氏)→神王(皇族、桓武帝従兄弟)

このように見事に藤原氏以外の人が五十年間も続いて立ちます。ですので藤原氏にあまり出番はなく、天皇親政が続いたのでした。神王以外は天皇の贔屓も見当たりませんし、神王も十分優秀な人だったらしいので、これは多分に偶然のなせるわざであります。

この後も仁明天皇の時代まで、藤原氏とそれ以外の政権が半々くらいの期間で続きます。

藤原氏の政権独占には「幼帝の登場」が非常に重要な要素だったことがこのグラフから如実にわかります。即ち清和天皇の即位です。(おっ!うまく源氏とつながりましたね)

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Re: ところで

 投稿者:きんたろう  投稿日:2010年 1月12日(火)22時12分27秒
返信・引用
  > No.3706[元記事へ]

べっちゃんさんへのお返事です。

> 奈良時代の天皇や公卿の年齢を調査してエクセルファイルにまとめました。
> まあ資料集をパソコンに入力し直しただけなんですが。
>
> 権力のありかが主要な政治家の年齢の上下によって大いに左右されていたことがわかって面白いです(要するに一番歳を取っている人が一番えらい)。


流石、安部さんはすごいですね。(^-^)

>要するに一番歳を取っている人が一番えらい

確かに、一般人でも「村の長老」が一番えらかったですよね!
年齢の大小は絶対に逆転できませんから、この基準は確かに大きなウエイトを占めていたと思いました。

それに、年をとると他人の話を聞かなくなると言いますから、年をとっている人を説得するのは難しいです、(^^ゞ
 

確かに

 投稿者:きんたろう  投稿日:2010年 1月12日(火)21時59分21秒
返信・引用 編集済
  その一族もしくは家系が続くというのだから、代々婚姻を重ねていくのは至極当然と言えば当然で、そうなると、血統的にも近く、かつ主従関係が世代を超えて続くのというのを納得しました。


同じ時間に生活している人は、同じ価値基準を共有しているものと思いがちですが、実は同じ価値基準の通用する範囲というのは、物理的空間として案外狭いのではないか?と考えています。

私たち日本人の場合は、根本的に1億2000万人を同質だと思っていますよね。
これは、地域性とか年齢とか性別、あるいはお金持ちや貧乏人という個人の差はあっても、「日本人は平等なり」という認識から来ていると思います。

でも、日本の常識は世界の非常識と今でも言われている位ですから、この認識が「ワールド・スタンダード」かと問われれば、ノーと判断されるはず。

ある価値観が通用するのは、予想以上に限定された空間だけであって、それ以外の場所では、古い時代の価値観、あるいは、全く違う価値観に支配されたテリトリーである、そんな風に地球上の空間はハッチワーク状態になっている、物理的に区分された空間が組み合わさって出来ている、と見た方が真実の姿に近づけるように思っています。

もちろん、だからといって、現代の通信技術、移動技術によって、一応の共通物差しは知られているわけですが。


現代ですら世界がこの有様なら、100年、1000年の時間を遡れば、日本においても、様々な価値基準によるテリトリーが乱立していたとしても不思議ではありません。

つまり、京都を中心としたエリアでは、最も伝統のある基準、あるいは権力、権威が最後まで続いていたが、地方では、特に応仁の乱以降では、京都スタンダードが勢力(というか権力)を失っていった。。。

空間は王朝の権力や寺社などの宗教勢力、あるいは、新興の「悪党」などにより分割された世界だった。

という感じかな、と思います。
 

ところで

 投稿者:べっちゃん  投稿日:2010年 1月12日(火)20時08分36秒
返信・引用 編集済
  奈良時代の天皇や公卿の年齢を調査してエクセルファイルにまとめました。
まあ資料集をパソコンに入力し直しただけなんですが。

権力のありかが主要な政治家の年齢の上下によって大いに左右されていたことがわかって面白いです(要するに一番歳を取っている人が一番えらい)。

面白いのは称徳天皇と道鏡で、貴族と比べて比較的年少であった称徳天皇が、ハンデを逆転する裏技として、年長の僧侶を連れてきたのではという推測もできます。あと道鏡の年齢(推定)が聖武天皇と光明皇后と同じくらいで、称徳天皇が道鏡に引かれた理由は案外このあたりにあるのではないかとも思うのです。

そもあれ長生きできる人と子沢山な人が生き残るというわけです。

私は摂関家が貴族の頂点に立ったのは代々長生きの人物が続いたからという仮説も持っていまして、この摂関家の長生き遺伝子についてもそのうち系図を使って説明しようと思っています。見事なぐらいメンデルの法則に従っています。この遺伝子を追っかけていくと光仁天皇と高野新笠にたどり着くのですが、光仁天皇は酒に強かったらしいので、消化器に関する遺伝子かなとか思っています。

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代々通婚を続けて

 投稿者:べっちゃん  投稿日:2010年 1月11日(月)20時07分14秒
返信・引用 編集済
   武士団の中の誰かがつねに従兄弟や叔父、甥になるようにしたので、世代を超えて主従関係を維持できたのではないかと。

 都にあっては天皇を頂点とする父系家族の秩序で朝廷を維持し、源氏や平氏を頂点とする父系家族の秩序で地方を維持する。

 しかしその実、天皇家の家産の形を取っている国家の運営は藤原氏を頂点とする母系家族の秩序で行い、地方でも領地の運営はやはり源氏や平氏を婿養子として迎えた土着の豪族の母系家族の秩序で行う。

 外的秩序(権威・法律)を父系で確保し、内的秩序(権力・経済)を母系で回していくという日本の文化の在り方は根強いものがあるのだと思います。

 支那も代々の皇帝をみていればすぐ分かるのですが、外戚が強いんですよね。ただ、日本と違うところは、支那の場合は皇太后(皇帝の母親)が表に出てきて官僚に命令をしたり、外戚が皇帝を乗っ取ったりしてしまう(日本の権力者のお母さんは直接組織に命令を下すようなことは決してしません、必ず代理を立てます、北条政子はかなり特殊な例)。表に出てきてしまうと長続きしません。だから支那には藤原氏みたいな永続的な外戚というものが生じなかったのだと思います。
____________________________________

 戦後日本政治の場合、内閣が父系で自民党が母系なんですね。今回自民党が没落したのはおそらく小泉政権の時に内閣が党を支配する態勢に改めたことが、政治家そして日本人の体質に合わなかったからじゃなかろうかと思うのです。

 足利義教が父系的秩序を振り回した後に守護大名の拒否反応が出て暗殺された感じです。郵政選挙の落下傘候補も足利義教の守護大名家の相続介入に近かったのかもしれません。百五十年後に織豊政権と徳川幕府が同じことをやって成功しますが(お取り潰しや転封の濫発)、足利義教は早過ぎたんですね。

 じゃあ民主党はどうかというと、今のところ党(母系)が強すぎる状態でちょうど藤原良房とか道長みたいな感じです。ですからやっていることはデタラメなわりには不思議と国民は怒らない、据わりがいいのでしょう。けれども母系が表に出すぎると、おそらく猛烈な拒否反応が国民の間に生じると思います。そういや今の総理大臣は足利義政によく似ています。
____________________________________

 でも日本史を貫くもう一つの大きな秩序として「所領安堵」があります。これは普段は表に出てこないけれど、これが侵害されると父系も母系もクソもなくなります。しかし所領安堵さえ確保されれば、年貢や軍役の引き上げにも日本人は従容として従います。

 現在は、農林水産業や自営業や公的機関(及び自治体)、これは戦前から続いていますので朝廷の荘園みたいなもので、そして企業はこれは鎌倉幕府や室町幕府に従う武士団みたいなもの、といった従来型の「所領」これが綻び初めて、アンダーグラウンドの悪党みたいな税金を払わない産業とか、どこに本籍があるんだわからない倭寇のようなグローバル企業、臨時雇いの足軽みたいな派遣労働者が増えて、朝廷や幕府を脅かしている状況ですね。

 こうなるとね、一度所領関係を整理する、即ち太閤検地をやるしかない。それと不当な既得権益を排除する刀狩りも必要ですね(刀を狩られたのは中央官庁ではなくて生産活動を行う農民だったことに注意)。

 日本人は新しい秩序を組み立てる方法は、外から持ってくるか下から積み上げる方法しか知りません。なんだか最近の動きを見ていると、下から積み上げるタームに入りつつあるような気がします。民主党はまだ制度の手直しでなんとかなると思っているので、これもまた長続きしないと思うんですよね。ていうかありゃ建武の新政そのものです。そのうち南北朝か応仁の乱が発生するんじゃないかと思います。

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代替わりの時

 投稿者:きんたろう  投稿日:2010年 1月11日(月)16時17分37秒
返信・引用 編集済
  に、すぐ土地を奪われてしまうというのは、現代の相続税(あるいは贈与税)の高さに似たものがあるのかな?と思いました、(^^;)

まあ、鳩山さんの場合は毎月1500万円という破格の子供手当(というかお小遣い)を貰っていたとのことですが。。。


地方に平氏や源氏が雨後の竹の子状態で広がるのは、以前書いた通りだと思っています。
それはかつて天皇が幸行して、各地における独自勢力(自前で勢力を作り上げた、つまりは豪族)を自分の配下に納めていったことの焼き直しでもあったように思います。

そして、現地初代を生んだ豪族の姫は、マリア様のようなポジションなのなも?と思いました。
 

ただ単に

 投稿者:べっちゃん  投稿日:2010年 1月10日(日)23時43分57秒
返信・引用 編集済
  頼信、頼義、義家と三代続けて面倒見の良い棟梁が続いただけだったのかも。

義家の子供の世代の時に統制が緩んで一時的に武士たちが河内源氏から離れて、孫の為義が苦労していますよね。

世代を超えて主従関係が成立しているのは、主従の間に血縁関係がある場合が多いみたいなので、以前にきんたろうさんが指摘されていたように、豪族側から見ると源氏や平氏を婿養子として迎え入れたという意識だったのかもしれません。

あと確か義家は自分の所領を配下に分け与えていますので、部分的に領主と荘官の関係が作られていたというのがあるかもしれません。領主であれば法に裏打ちされた権利になりますので相続ができます。

頼信、頼義、義家と鎮守府将軍を維持していて、官位があったので、この三人は貴族として荘園を持つことができたんですよね。だから武士に自分の所領を与えることができた。けれども義家の嫡子は夭折したり内紛で殺されたりしているので、幼少の為義が義家をついだときには、当然為義は官位が低かったので義家から十分に所領を継ぐことができず(官位が低いと持てる私有地の広さが限られてしまう)、武士団の統制が緩んだのではないかと。

武門の統領が武士団を維持する為には、代々官位を維持する必要があったんですよね。そうしないと院や摂関が下級貴族の私有地を没収しようと虎視眈々と狙っていますので、代替わりの時にすぐに土地を奪われてしまうんですよ。

衰えたとはいえ、鎌倉時代の半ばまで京都の朝廷の定めた法の効力というのは結構あったみたいなんですよ。

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分からない事

 投稿者:きんたろう  投稿日:2010年 1月10日(日)22時47分56秒
返信・引用
  と言ったら、分からないことだらけなんですが。。。

平氏と源氏の関係というか、主従関係というのは、当人同士だけに通用する関係だったはずなのですが、源頼信だったか源義家の頃に世代を超えて主従関係が成立していますよね。

この理由について考察した論文(もしくはそれに類するようなもの)について、実は知りません(^^;)
 

桓武平氏の内訌

 投稿者:べっちゃん  投稿日:2010年 1月10日(日)10時15分58秒
返信・引用 編集済
   立川の古本市で仕入れた「相模三浦一族」(奥富敬之著、新人物往来社刊)を読んでいたら面白いことが分かりました。ものすごく基本的なことなんですが・・・

 天慶の乱(平将門の乱)に登場する高望王から分かれた平氏一族には五つの流れがありまして

長男 国香ー貞盛・・・(清盛流、北条流)
次男 良将ー将門・・・(相馬流、千葉流、上総流)
三男以下 良兼、良持、良文・・・(村岡、三浦、千葉、大庭、梶原など関東八平家)

 となるのですが、天慶の乱の結果なんだかんだで貞盛流は良兼、良持、良文の系統との抗争に負けて関東が追い出されるそうです。貞盛流は都で受領階級になれましたから、関東の所領にあまり未練がなかったというのもあるでしょう。

 となると最終的な結果から天慶の乱を評価すると、三男以下に担がれた次男系統である将門による長男の貞盛流に対する関東平氏の嫡流争いだったといえるのかもしれません。これならありふれた動機で特段不思議はありません。将門が貴種だったので大事になってしまったのではないでしょうか。桓武天皇五世の孫ですのでギリギリ皇位継承権があります。まだ皇族とか臣籍とかの区別が厳密ではなかった時代でしたし。

 貞盛流と三男以下の関東八平家は非常に仲が悪かったらしく、その結果関東八平家は清和源氏の源頼光に臣従し、これが義家、頼朝まで続きます。「本家に主人面されるくらいなら源氏の下につく方がマシ」と考えていたらしいです。これは貞盛流の北条氏と御家人の争いに受け継がれます。幕府が日本全国を治める政権になってしまったので話が大きくなってしまいましたが、鎌倉幕府の熾烈な権力闘争も、当人の頭の中では関東平氏の嫡流争いだったのかもしれません。

 我々から見ると「北条氏は卑官にすぎないじゃないか」となるのですが、北条氏の頭の中では「伊勢平氏亡き後の北条は貞盛流の推定相続人で、平家の中では一番血筋が高くて、源氏亡き後武門の棟梁になるのは当然」という考えがあったのでしょう。そして当時の人たちも北条氏のこの主張にある程度妥当性を認めていたから北条氏の天下が百年続いたのだと思います。このことが分からなくなったのは、北条氏の後に足利、徳川と源氏の時代が六百年続いたので、平氏のことがよく分からなくなってしまったからではないでしょうか。清和源氏については我々は詳しいけれど、平氏は室町以降重要性を失ってしまったので、室町以降平氏内部の出来事が分からなくなってしまったのだと思います。

 それとものすごく基本的なことで恥づかしいのですが、清和源氏の嫡流の摂津源氏と河内源氏の呼び名の理由は、摂津国多田庄を相続した源頼光の系統の方は文字通り摂津に住んでいたけれど、頼信ー頼義ー義家の河内源氏の方は源頼信が河内守だったからそう呼んだだけであって、河内に住んでいたからではないと言うことが分かりました。ややこしいですね。

 平安時代には畿内に基盤を持てた方が勝者でしたので、記録も多く残っているのですが、歴史的に重要なのは関東に流れた方でして、けれども関東に流れた方は当時は重要視されていなかったので記録が残っていない。そのせいで史料のアンバランスが生じて鎌倉時代の物事が分かりにくくなっているんですよね。

 これは室町時代も一緒で、室町時代に重要さを増すのは東海や畿内の武士なんですが、この人たちは御家人の分家や承久の乱の敗者ですので、これまた彼等が勢力を扶植した時期の記録が残っていなかったりします。

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Re: おめでとうございます

 投稿者:きんたろう  投稿日:2010年 1月 6日(水)21時41分49秒
返信・引用 編集済
  > No.3699[元記事へ]

おめでとうございます。
お元気でらっしゃいますか?

能登半島へは一度だけ行ったことがあります。
そこで唯一不思議な体験(というか夢見ました)をしました。

再び、能登や珠洲に行ってみたいと思っています。

と言いつつ。。。
能登空港が開港して便利になったのに、なかなか行くことが出来ません。(^^;)
 

おめでとうございます

 投稿者:大介  投稿日:2010年 1月 6日(水)17時38分4秒
返信・引用
  皆さん、今年もよろしくお願いします。
文を書き始めたとたん投稿されてしまいました。ごめんなさい。
能登半島では今年の元旦は、強風と大波と、大荒れの天候で始まりました。
皆さんの地元ではいかがでしたか。
この大荒れの天候が過ぎた後には、青空が顔を出します。
今年一年、昨年の大荒れの世相がこの嵐に吹き飛ばされ、
好天の一年になりますように。

写真は、元旦の能登の風景です。
 

おめでとうございます!!

 投稿者:きんたろう  投稿日:2010年 1月 2日(土)14時00分20秒
返信・引用 編集済
  あっという間に、今年も始まってしまいましたね。

この近辺は新年に相応しい暖かな陽気で、正に「迎春!」といったところです。

ここ数年は何かと忙しくてというか、慌ただしかったり、心配事があったりと、リソースのかなりの部分をリアルに向けざるを得なくて、そうなると、必然的にネットに費やす比重が下がっていました。

でも、ネットの陥りやすい罠として、知識の摘み食い的な「ループ状態」を避ける事が出来て良かったのかなと思っています。


ここ数年で強く印象に残っている事と言えば。。。
例えば、正倉院展における1300年前の文章があります。

リサイクルをして裏紙も利用していたために、戸籍謄本?に相当するものなど残っていて、(このために一枚が二重の資料価値を持っている)これらを見ると、いずれも素晴らしい文字力なのには驚きました。

正直に言って、自分のところの戸籍謄本のぐちゃぐちゃした文字と比べると、1300年前の文字の方が遙かに優れているのですから。。

同じように、歴史館の資料室に保管してある水戸家の武士の家系図も素晴らしく整っていました。流石です。

ちなみに、水戸家関係の資料は、茨城県歴史館と京都大学の2カ所にほぼそろっているとの事です。


と言いつつ、今年こそはポメラを使って有限の時間をよりいっそう有効に使ってみようと思っています。


今年も、安部さんの説をとても楽しみにしていますね。
勿論、國譲りも!
 

あけましておめでとうございます

 投稿者:べっちゃん  投稿日:2010年 1月 2日(土)11時56分6秒
返信・引用
   今年もよろしくお願いします。

 ここ二年くらい「春秋」「詩経」「易経」などの古代支那の歴史を調べているのですが、やっと取っ掛かりがつかめてきました。ある程度つかめてきましたら、これを手がかりにして「古事記」や「日本書紀」を読もうと思っています。

 記紀神話には儒教や仏教の影響はほとんどないと思うのですが、五経(易経、書経、春秋、礼記、楽記)の影響は強く出ているのではないかと思うんですよね。意味不明とされていた部分も、五経を手がかりにすれば解明できるのではないかと。

 マンガ「出雲国譲りの真相」第四話の制作も順調に進んでいます。

 楽しみにしてくださいね!
 

Re: 正倉院展

 投稿者:きんたろう  投稿日:2009年12月 8日(火)21時28分29秒
返信・引用 編集済
  > No.3690[元記事へ]

べっちゃんさんへのお返事です。

>  今年はどんなのが展示されていましたか?


今年の目玉は、「紫檀木画槽琵琶」(したん もくが そうの びわ)です。
この琵琶は、ペルシャ起源で唐で作られた作品とのことでした。

正倉院宝物の例に漏れず、この琵琶も、きめ細かいきれいな模様で飾られていました。
絵柄は鳥で、手塚治虫の「火の鳥」のような感じでした、(^^;)

また、囲碁の基盤も展示されていました。
ということは、囲碁というゲームは、1300年前にすでに完成されていたということなんでしようね。

それと、東大寺の荘園の文書で、(これは福井県にあったものですが)地名が「糞何タラ〜」というもので、そのネーミングの感性に「およよ」と躓いてしまいました、笑

毎年に同様の文書を展示していますので、来年も見ることが出来ると思いますが、聖武天皇や光明皇后の直筆がありました。

かなり達筆です。
 

正倉院展

 投稿者:べっちゃん  投稿日:2009年12月 6日(日)23時27分18秒
返信・引用
   今年はどんなのが展示されていましたか?

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えっ、それが興福寺!?

 投稿者:べっちゃん  投稿日:2009年11月13日(金)21時58分26秒
返信・引用
  信じられません、本当にブームなんですね(^^;  

阿修羅像

 投稿者:きんたろう  投稿日:2009年11月11日(水)19時09分27秒
返信・引用 編集済
  はものすごい状態でした。
驚き!

去年見た時は展示室にあったはず(というかそれが普通の状態)の阿修羅像を、特別にお堂で(仮金堂)で薬師如来像などと一緒に展示している期間だから?のようです。

阿修羅王が上野の博物館から戻った記念イベンみたいですね。


この行列は阿修羅像を見る人たちのもので、北円堂ですら一時間待ちという凄まじい状態でしたので、こちらは諦めました、(^^;)


さて、本番の正倉院展はというと、相変わらず素晴らしい宝物で感動して帰ってきました。


でも、毎年人が増えているせいか、無理矢理割り込もうとするようなマナーの無い人が増えたように感じたのは残念です。
 

生瀬の瀧

 投稿者:べっちゃん  投稿日:2009年11月10日(火)20時46分50秒
返信・引用
  これは袋田の瀧の上流にある生瀬の瀧です。

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袋田の瀧

 投稿者:べっちゃん  投稿日:2009年11月10日(火)20時45分19秒
返信・引用
   これは大子町の袋田の瀧です。紅葉がきれいでした。

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瀧神社

 投稿者:べっちゃん  投稿日:2009年11月10日(火)20時44分19秒
返信・引用
   週末に水郡線に乗ってきたのですが、なんの気なしに降りた瓜連町の静駅にえらく古い神社がありました。

 検索しても全く情報がありません。なんの変哲もない村の鎮守なのですが、すごいですね。さすが常陸國の久慈郡。歴史があります。

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奈良のルポ

 投稿者:べっちゃん  投稿日:2009年11月 9日(月)19時39分51秒
返信・引用
   楽しみにしています。薬師寺展や、NHKの「日めくり万葉集」とか、平城京遷都千三百周年(来年)などで奈良はちょっとしたブームらしいですね。

 十年前に興福寺へ参拝した際は、阿修羅像がかなり無造作に展示してあって驚いたのですが、さすがにあれだけ有名になってしまうと前とは見せ方も変わってくるのでしょうか。

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