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ブログからの転載です。
当時の武士のあり方がわかる説話です。
尾張国山田郡に右馬充明長という人がいた。承久の乱のときに京方(後鳥羽上皇側)に参戦して杭瀬川の戦いでおびただしい疵を負って、敵からも止めを刺されて、死んだものと思われて敵方は打ち捨てて京都へ向った。友達が二人いて戦場の近くで落ち延びていたが、夜に入ってから供養しようとして近寄ってみると、ひどい手負いでありながらまだ息があった。そこで肩に引っ掛けて青墓の北の山へ連れて行った。
多くの疵の中で、喉笛を突き通されたのが一番重かった。「もう助からない、首を斬ってくれ」と明長は頼んだが、それはさすがにかわいそうだと友達は思って連れて歩いていたが、落ち武者狩りが始まり、明方も近くなったのでどうしようもなくなり、大きな木のうろに明長を隠して二人は落ち延びた。
落ち武者狩りをしている武士は明長の血の痕を追ってそのあたりをうろついていたが、そのうち去ってしまった。その後で鎌倉から来たと言う黒衣を着た僧侶が、草の葉を揉んで食べさせてくれると、腹の中の血が下って明長の身体も軽くなり、気持ちも上向いてきた。
その僧はいつの間にか消えていた。友達がまた来て、木の中より出した。明長は「僧侶に助けてもらって身体も軽くなった、故郷まで歩いて帰ろう」と言った。しかし、下津の川が増水していて進みかねているうちに、関東に帰参する武士に見咎められて捕縛されてしまった。
戦死していたはずなのに捕まって恥をさらすのが口惜しく思えて明長は川に身を投げようとした。川岸に歩み寄ると、龍山寺から来たという僧が現れて、「死んではいけない、自害をしてはいけない」と声をかけてくれた。夢かと思ったが現実であった。
しかし疵も痛むし暑くなってきた。耐え難くなってきたのでやはり身投げしようと川岸によると、また僧が縄を引いて「そんなことをしてはいけない」と制止したので思いとどまった。
明長は熱田神宮の神官と顔見知りで、「神宮に寄付などして貢献してくれた人だから私達が預かろう」と助けようとしたが、鎌倉方は「それならば名のある人間だろうからなおさら逃がすわけにはいかない」といって許してくれなかった。そして鎌倉まで連行されて北条義時の前に引き出された、すぐに首を刎ねよとなって、湯井の濱(由比ガ浜)に連れて行かれた。
するとまたあの僧が現れて「悲しむことはないぞ」と言ったが、これでもう最期だと観念して一心に念仏した。
さて乱橋という橋の袂で、古くからの知音とすれ違い、「これはどうしたことだ」と馬をとめて声をかけてくれた。「杭瀬川で死んでいた身であるが、恥をさらすことになって、首を刎ねられるために濱へ向うところです。最期にお目にかかれて嬉しいです」と明長は言った(言葉遣いからすると明長の元上役で幕府の枢要と思われる)。
「これは年来の知音である、相模殿(義時)へ頼んで処刑は預かってほしい。」とその武士は書付をくれて、義時の前で助命嘆願までしてくれたので命が助かり、疵の手当てまでしてくれて、故郷で天寿を全うした。喉笛の疵の生で声はしわがれていたという。孫が今も生きている。明長の養子となった人から聞いた話である。
昔はこのような不思議なこともあったというが、末代の世にこのようなことに出会うとはありがたくめでたいことである。夢に出てくれるだけでもありがたいのに、現実に現れて助けてくれるとは、なんとも尊い利益である。
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登場人物の行動や心の動きは現代人にも理解しやすいものです。おそらく同郷人と思われる友達は危険な戦場にとどまって明長を助けようと尽力しますし、熱田神宮の神官も信者を助けようと鎌倉方に掛け合ってくれます。
観音の化身が三度まで自害を制してくれますが、明長もそれに従っています。つまり最後の希望が潰えるまで生き延びるべきであると当時の武士も考えていたことがわかります。
明長の元上役も、北条義時の機嫌を損ねる危険を冒してまで助命嘆願に付き合ってくれます。当時の人間付き合いが濃厚なものであったことがわかります。
縁者に会って確かめた、喉の傷跡も残っていたと、無住も架空の話ではないことを強調しています。当時の人も無条件にこういう話を信じていたわけではないこともわかります。八百年前の人たちも、今の私達と同じようなことを考えて生きていたのでしょう。
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