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「風土記撰進の詔」とされている条文が「続日本記紀」の和銅6年にありますから、
大きなというか国家的なプロジェクトではあったのでしょう。
この命令の直後のものとされるのが現存するものの中では常陸と播磨の和銅風土記です。
現存する出雲、肥前、豊後の各風土記は天平風土記とされています。
この両者の大きな違いは、地理とか施設の細かさの点です。
時期的なものとしては「長屋王の変」の前後とも言い換えられます。
和銅風土記は全国一斉にそれぞれの国の特徴や名産物、土地柄、地名とその由来の報告を命じたものに応じる形の「解」。わさわざ古老に確認することまで命じています。
これに対し、天平風土記は軍事に応用できる地理的な記述が詳細です。
この性格の違いから、現存する出雲風土記は二作目の風土記じゃないかという説もあるようです。
一度、播磨や常陸のものと同じような性格のものを提出したが、再提出させられたのでは
ないかということです。
最初に提出した風土記には記紀に所載の出雲神話と重なる部分が多く、記紀と重なる部分をあえて削除し、記紀に載らない部分を多く記載した。さらには「長屋王の変」によって呼び起こされた内乱への対処としてより緻密な報告が求められたのかもしれません。
出雲は、というか出雲臣(出雲)は長屋王(天孫)に近かったりして。で、長屋王の変後に勢力を磐石にした藤原氏(タケミカヅチ)によって、出雲本国の施設と地理を丸裸にされた。。。。
これが最後の国譲り。。。。
おそまつ(^^ゞ
http://purple.ap.teacup.com/azisuki/221.html
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